山根13)『福翁百話』が説く教訓「なにごともおろそかにしてはいけない」・15号

               福翁百話 第十九章が説く教訓

            「なにごともおろそかにしてはいけない」

                             山根 昭郎 (1975 法卒)

前号では、福翁百話が説く「人間の役目」について考察した。第十九章では、「たった一つの言葉や行いも、決しておろそかにしてはいけない」と諭吉は説いている。

◆「大海の一滴」「九牛の一毛」

諭吉は「大海の一滴」「九牛の一毛」という言葉を挙げる。いずれも、全体からすればまったく取るに足らないことを意味する。しかし、諭吉は言う、「たとえどんなに些細なものであっても、必ず他に影響を与えるものであるから、決しておろそかにしてはいけない」と。

思うに、宇宙の不可思議さや、その摂理について洞察してきた諭吉は、おそらくすべての存在や価値というものをひとつの真理として捉えていたからこそ、こういう思いに至ったのでないだろうか。

そしてその真理は決して物質的な事象だけでなく、人間の精神、感情にも及ぶものだと続けている。我々が発する言葉や、我々の行為というものは、慎重になすべきことはもちろんであるが、たとえ遊び半分だからと言っても、無頓着な言動をすべきではないと言う。たとえば、何気ない一言が他人を傷つけたり、他人の秘密をうっかりしゃべったりすることで、相手を傷つけ、あまつさえその家庭を破壊するようなことも、あながちあり得ない話ではない。この極端な例は、新聞やテレビで世間の耳目を集める事件や犯罪に散見することができる。しかし、身近な日常生活でも、些細で、たとえ目に見えなくても、ひとの言動というものは、他人の不幸や幸福に影響を及ぼしかねないものである。

「たった一つの言葉も、たった一つの行為も、ずっと消えずに何らかの結果を生じていく。だから決しておろそかにしてはならない。」-そしてそうであるからこそ、他人にとって幸福の連関が生ずるように、自己の言動を心がけるべきである。ここに諭吉の主張がある。

◆若い時から心がけるべきこと

では、どうしたらよいのか。おそらく誰しも、諭吉の言っていることは至極当然であり、正しいことだと同意するであろう。しかし、それが守れないのもまた人間の弱さである。上述の心がけは、不断の努力で身についていくしかない。特に、できるだけ若い時から自分ひとりで精神を訓練し、あらゆる物事や出来事をうっかりと見過ごしたりせず、緻密に考察する心を養うことが肝要である、と諭吉は言う。そうした習慣を身につけて、やがてそれが第二の天性となって、自分で意識しなくとも、自然とひとつの言葉やひとつの行為の中に、立派な言葉や立派な行為が体現できる人間を志すべきであると。

◆自分にとっての教訓

さて、筆者は7月末をもって退職をし、現役から退くことになった。上述した諭吉の言葉を噛みしめると、若いころに学んだ漢詩を思い出す。

次の漢詩は、南宋の朱喜(朱子)(1130-1200)の作と言われる。

少年易老学難成  少年老い易く 学(がく)成り難し

一寸光陰不可軽  一寸の光陰 軽ろんずべからず

未覚池糖春草夢  いまだ覚めず 池糖(ちとう)春草(しゅんそう)の夢

階前梧葉已秋声  階前(かいぜん)の梧葉(ごよう)すでに秋声(しゅうせい)

 

(現代語訳)

若い時代はすぐに経ってしまい、学問を成就させることは容易ではない

それゆえにほんのちょっとした時間であってもおろそかにしてはならない

池のほとりに春の草が萌え、ああ楽しい夢を見ていると、まだ覚めてもいないのに

早くも庭先では、梧桐(あおきり)が葉を落とす秋が来てしまっている

まさに真理をついているとこの歳になって思う。諭吉を初め、英哲の先人たちが学問を極め、到達した境地に、憧憬の思いを寄せると共に、改めてその頂きの高さに感嘆せざるを得ない。

(了)

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