山根7)明治十四年の政変と福澤諭吉(2)・・・(8号)
「アーカイブ」より:明治十四年の政変と福澤諭吉(2)
山根 昭郎 (1975 法卒)
(前稿から続く)
◆『明治十四年の政変』の顛末
明治維新以後、全国各地で明治政府に対する反乱として「佐賀の乱」や「萩の乱」などが勃発したが、明治10年「西南戦争」を最後にその勢いは収束した。福澤諭吉は明治12年、「国会論」を郵便報知新聞社説に掲載し、その主張は自由民権運動の喚起につながった。さらに福澤は「民情一新」を発刊し、その中で英国型立憲政体について述べ、強く推奨した。
福澤は明治13年に交詢社を設立し、福澤門下生たちは「交詢社私擬憲法」を起草したが、それは前述の通り「国王は君臨すれども統治せず」との英国の政治原則を反映したものであった。大隈が明治14年に提出した意見書はイギリス流の立憲君主国家を標榜し、早期の憲法公布と二年後に国会の開設を主張するものであった。
そのような自由民権思想の台頭に危機感を覚え、儒教思想に基づく天皇の権力保持を一義と考えていたのが 井上毅であり、そのバックには伊藤博文がいた。
このように政府内部で対立する、①薩長藩閥と連携する伊藤博文・岩倉具視と、②佐賀藩の大隈重信のグループの争点の一つが、憲法のあり方、国会創設であった。伊藤等はプロシア風の立憲君主制を中心とする憲法・国会を考えていたのに対し、大隈らはイギリス流の議会制民主主義を目指していた。
そうした対立の中で起こったのが、官地払下げのスキャンダルであった。政府内外から激しい批判が高まり、政府は一度承認した払い下げを中止せざるを得なくなった。この事件を契機に自由民権運動が大いに鼓吹されることになった。この自由民権運動の盛り上がりに危機感を抱いた政府(薩長藩閥)は、批判の急先鋒だった大隈重信を政権から追放する挙に出る。同様に、大隈のブレーンであった慶應義塾門下生も官界からパージされることになった。
◆『明治十四年の政変』がもたらしたもの
1)明治国家としての変化
丸山昌男の指摘によれば、明治10年頃までの政府は日本の近代化、文明開化の先頭に立っており、明治初年の健全さと先進性が窺えるが、明治14年の政変を契機として、その施策は、藩閥の既得権を擁護する色彩に変わった。例えば、教育方針に見る儒学・国学の復活、欧化主義の裏に隠された国家主義的教育改革、明治23年の教育勅語、等々。
2)慶應義塾としての観点
政府から追い出され下野した慶應義塾門下生らは、官界への道は閉ざされることになった。しかし、彼らは『時事新報』を立ち上げたり、積極的に実業界へ進出したりしていった。やがて多くの門下生たちが財界へ進出し、企業を興していった。その中の一人に阪急を興した小林一三がいる。
また、野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年3月には立憲改進党を結成、また同年10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を開設した。
◆福澤諭吉の思いはどうであったか
福澤の思いは複雑であった。啓蒙思想家として成功を収めながら、政治思想家としての挫折を味わったのでないかと思われる。政府の教育方針に対しては次のように鋭い批判を行っている。
1)明治25年11月 『教育方針の変化の結果』要旨(時事新報)
・明治14年の政変以来、政府の失策は一つに留まらず、教育の方針を誤ったことこそ失策中の失策である。
・教育の誤りはアヘンの毒のように体を冒していく。それを治すのはたいへん時間がかかる。
・明治14年以来、政府当局者はにわかに教育方針を一変させ、復古主義に陥り、儒学の老先生を学校に戻し、新たに修身の教科書を編集して生徒に読ませる、英語やフランス語など外国語の教授を辞めさせると言いだした。
・もっぱら古流の道徳を奨励して、教育を「忠君愛国」の範囲内に押し込めようとしている。その上で文明進歩の大勢を止めようとしていることは忘れることのできないことである。
2)明治33年11月 『文明の政と教育の振作』要旨(時事新報)
・明治維新以来、旧物、旧習を破壊して、一意専心、文明に向かって進んできたのに、中途にして方針がにわかに一変して、種々のおかしいことを演じ、学問、教育上に一つの病質を醸し、患いを残して来たのは明治14年の政変の結果に他ならない。
・政変と同時に、突然教育の一挙に変えようして、文明進歩の気風を排斥しようとしたことがそもそもの大間違いである。
・明治14年の政変に際し、現総理の伊藤博文は、政府官僚の一人として、儒教主義復活の騒動を知らないはずがない。たとえ当事者でなくとも、その責任は断じて免れることはできない。
・十数年の失策の結果、排外思想を流行させたことは、外交上の障害になり、国の文明の進歩を妨げている。
・当局者は従来の主義を一変して、教育を新たにして弊害をなくそうとするならば、自分もいささかの労を惜しむものではない。
以上、雑駁ながら明治十四年の政変と福澤諭吉について考察をした。(了)