山根6)明治十四年の政変と福澤諭吉(1)・・・(7号)

「アーカイブ」より:明治十四年の政変と福澤諭吉(1)

                       山根 昭郎 (1975 法卒)

6月初旬にロンドンに旅行する機会を得た。ロンドン再訪は十年ぶりのことである。

旅に先立ち、英国の歴史、文化などについておさらいした。旅をより充実させたいとの思いで、訪問を予定する宮殿や観賞する絵画の歴史的背景を予習したものである。

ところが思わぬことに、その予習と実地見学が、本年1月19日に受講した福澤研究を振り返り、さらに興味を深めることに大いに役立つことになった。物事はどう展開するかわからないものである。幾つになっても学習すべきとの思いを新たにした。

さて、まず英国で立憲君主制がいかに確立されたかを大雑把におさらいしてみる。そして、明治十四年の政変との関連性を考察してみたい。

◆イギリスの立憲君主制の確立(権威と権力の分離がいかにしてなされたか)

・16世紀後半、イングランドはエリザベス女王の統治下で大いに国力を伸長したが、女王に後継者がいなかったため縁戚のスコットランド国王を新国王に迎え入れた。

・ところがカトリック教徒であった新国王側は、新教徒(イングランド国教会や清教徒)に宗教的圧迫を加えたので、国王と議会が衝突し、清教徒であるO.クロムウェル率いる鉄騎兵が勇戦した議会側が勝利を収めた(清教徒革命)。

・O.クロムウェルは国内の混乱を武力収拾すると、国王を処刑し、共和政を樹立した。

・後を継いだR.クロムウェルは政治的に無能であったために、貴族など有力者は、大陸に亡命政権を立てていた王室に帰還を求めた(王政復古(1660))。

・しかしカトリック教徒の国王側が、宗教政策で再度国民を圧迫したため、議会のトーリー、ホイッグ両党(二大政党の源流)が連名で、オランダに嫁いでいた新教徒のメアリー王女と夫のオレンジ公オランダ総督ウィリアムに『権利章典』の承認と引き換えに王位を差し出して、旧教徒の国王一家を追放した(名誉革命)。

・その後、メアリー女王の妹であるアン女王が即位した時期に、王位継承者を新教徒に限定する『王位継承法』が定められ、その規定に従って、アン女王没後に、ドイツから新教徒のハノーバー公が王位に迎え入れられた。(なおアン女王の時代に、イングランドとスコットランドが統一して連合王国【United Kingdom】が誕生。)

・ドイツ生まれの新国王ジョージ1世は、英語が話せず閣議を主催できなかったために、ホイッグ党の指導者であったウォルポールがこれを代行し、議会の有力党の党首が国政を執る責任内閣制が生まれた。

・こうして、イギリスにおいて「国王は君臨すれども統治せず」という政治原則、つまり、①権威(Authority)を体現する国王と、②権力(Power)を保持する議会という「権威と権力の分離」が確立された。

・国王と議会は、ともに『マグナ・カルタ』『権利請願』『権利章典』『王位継承法』などの成文法典や慣習化された不文律を含む国憲(constitution)を遵守し、国王のみならず、議会もまた「絶対無制限の権力」を行使することは許されないこととなった。

◆一方、明治十四年の政変について

『明治十四年の政変』とは、次のような政治事件である。

「1881年(明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文と井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件である。1881年政変ともいう。近代日本の国家構想を決定付けたこの事件により、後の1890年(明治23年)に施行された大日本帝国憲法は、君主大権を残すビスマルク憲法を模範とすることが決まったといえる。」(Wikipediaより)

それでは、福澤諭吉や門下生が目指した政治体制はいかなるものだったのであろうか。

福澤が興した交詢社が起草した私擬憲法(密かに憲法に似せたもの)によれば次の特徴が読みとれる。

1.「天皇ハ聖神ニシテ犯ス可ラザルモノトス。政務ノ責ハ宰相[大臣]之ニ当ル」の後段により、政務の責任は宰相(大臣)が負うとしたこと

2.天皇は立法権、統帥権、外交権を持つが、「天皇ハ内閣宰相ヲ置キ万機ノ政ヲ信任ス」と、内閣宰相が実際の政務を遂行することを信任するとしたこと。

3.内閣を規定したこと。ちなみに明治憲法には内閣の規定はない。「内閣」を憲法で規定すれば、当然陸海軍大臣や外務大臣は首相の下に位するから、軍部や外務省はやりにくくなる。実際問題として、軍部の専横を許した歴史の現実をみれば、この事実が明らかになる。

4.交詢社案の内閣規定のうち、重要なのは「内閣宰相ハ協同一致シ内外ノ政務ヲ行ヒ、連隊シテ其責任ニ任スヘシ」と内閣の「連帯責任性」を定めている点である。この「連帯責任性」は次の規定、「首相ハ天皇衆庶ノ望ニ依テ親シク之ヲ選任シ、其他ノ宰相ハ首相ノ推薦ニ依テ之ヲ命スヘシ」との規定と組み合わせると、政党内閣性の規定を形成する。「衆庶ノ望」は国会での多数でしか判断できないから、天皇は多数党の総裁を首相に選ばなければならない。そして「其他ノ宰相」はこの多数党の総裁が選ぶのであるから、天皇には政党内閣以外の選択肢はないことになる。

つまりは、「国王は君臨すれど統治せず」との英国の政治原則に沿ったものとなっていた。さらに政党内閣制や二大政党制までを包含する極めて革新的な政治思想に立脚したものだったと言える。

(本稿はこれまで。次回に続く。)

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