天川貴之(46号):哲学随想(5)~魂の不死と理性 真理 道徳律について~
【哲学随想5】
「魂の不死と理性 真理 道徳律について」
天川貴之 (平成3年法卒)
人間は、不可知なものをどこまでも探究してゆく生命体であるといえる。魂の不死というものは、ソクラテス、プラトン以来、カントに到っても、哲学上の重要問題である。しかし、カント哲学にしても、魂の不死というものを認めずには、その体系を語ることは出来ない。
どの文献に魂の不死についての正確な資料が述べられているかという問いには、大局的には、まず、カントとプラトンに述べられていると述べるのが哲学的な解答であるといえよう。或る時は、エマソンにと答えてもよいであろう。
数多くの歴史上の哲人が魂の不死について語っているのを観ると、その文献は数多いといってもよいのである。哲学的古典の大半は、魂の不死を認めているものである。セネカであっても、キケロであっても、マルクス・アウレリウスであってもそうである。もちろん、魂の不死を認めていない哲人も居る。しかし、大局において、魂の不死を前提として、哲学的体系というものが打ち立てられているのである。
カントのいうように、感性的存在としての人間以外に、理性的存在としての人間を認め、「叡智界よりの定言的命法」という理性の法則を認めること自体、魂の不死は当然のこと、魂の本質に到るまで、分析されているといえるのである。
理性というものが、脳の内にのみあるものであって、叡智界というものが、物質的な脳の内にのみあるということは、カントの哲学体系では全く考えられないことである。脳の働きは、どちらかというと感性的存在に属するものである。
カントは、こうした感性的な存在の背景に、明らかに理性的な世界を開拓してゆかれたのであろう。故に、カントを信頼すれば、理性的に魂の不死を確信出来、さらに魂の本質を確信出来るのである。この点に関しては、プラトンがその哲学においてなしたことと同じことを、似た形で成しているともいえるであろう。
理性について深く考えてゆけば、自然に、感性界とは異なった世界を想定せざるをえないのである。人間に理性というものが与えられていること自体が、人間は、永遠不滅の本質を有しているものであるといえる。また、真理というものがあること自体、また、真理というものを知ることが出来ること自体が、魂の本質が永遠不滅のものであることを示しているといえるであろう。
そもそも、無常無我なる物質的存在であるならば、真理について真に知ることは出来ないであろうと思うのである。真理について知ることが出来るものは、真理である。故に、人間の内には、本来的に真理が宿っているといえるのである。
真理が宿っているということは、魂が、本来、不死性を有している証である。真理が存在していること自体、永遠普遍なるものが人間性の内に本来的にあるということであろう。本来、不死なる真理を知ることが出来るものは、本来、不死なる魂である。
しかし、有限なる生命であっても、不死なる真理を観じえるのではないかという方もおられるであろう。しかし、本当にそうであろうか。不死なる真理を観じえるものは、不死なる本質であって、一見有限な生命に観えるものであっても、その奥には無限の生命を秘めているのである。
仏教に、無常無我なる自我論に対して、永遠の仏という観点が示されることがあるが、永遠の仏とは、もちろん魂の不死も含んでいる訳であるし、そもそも仏性があるということ自体、永遠の仏が宿っているということなのである。故に、我々人間に仏性があるということは、永遠の生命、永遠の仏の生命があるということであり、仏教においても、魂の不死の理論は示されていると観るべきなのである。
人間は、一面において無常であり、無我である。感性的存在としてみればそのとおりであり、感性的欲求もそのとおりである。しかし、理性的存在としてみれば、本来、永遠であり、本来、普遍である。「永遠普遍の道徳律」そのものが、永遠の仏であり、永遠の神である。それはまた、神性、仏性、理性、良心といってもよいものであろう。この「永遠普遍の道徳律」を発見すること自体が、仏教的にいえば大悟であるのである。
カントは、「永遠普遍の道徳律」という真理が実在するということが、人間存在の根本にあることであるということを発見されたのである。永遠普遍の道徳律があるということ自体が、それは、魂の不死、永遠性と同義であるのである。そもそも道徳律が永遠普遍であること自体が、超感性的で、超物質的である。我々の魂の本質において永遠普遍の道徳律があること自体が、魂の不死の証ともなるものなのである。
このように、魂の不死の問題に行き立った時には、カント等に立ち返ってみることも、一つの大道であると思われる。このように、真理を探究するということ自体が、魂の本質とは一体何であるのかを考えることになり、それは同時に、魂の本質に尊厳を見い出すことになると思われる。
真理は永遠不滅である。魂の本質には真理があるのである。この真理こそが、真善美聖の理念を把握しようとするのである。真理に深く穿ち入れば、必ず、魂の不死と邂逅することであろう。客観的真理そのものの存在を述べたソクラテス、プラトンは、その後の哲学の歴史に大きな方向性を与えた。魂の不死と想起説は、未だに新しい理論でもあるのである。
人間には、魂の不死を教え、魂の尊厳を教える哲人が必要不可欠である。
JDR総合研究所・代表