天川貴之:45号:哲学随想4「哲学と情熱について」

【哲学随想4】  「哲学と情熱について」

               天川貴之 (平成3年法卒)

 

古今東西の歴史の中には、人々の心をつかんではなさない書というものがある。人をして真に動かせしめる書というものがある。真なる情熱を与え、意欲を与え、無限の向上心と克己心を与える書というものがある。このような書をつづり遺して伝えてゆくということは、非常な熱意のいることであり、並大抵のことでは出来ないものであるのである。

書物の中には、その著者の全人格の力というものが籠るのである。一言一言の中に、気迫のようなものが刻印されてゆくのである。故に、文章をつづるということは、一言一言に命を込めてゆく作業であり、その一言一言の中に独特の風韻が鳴り響いてゆくようなものでないと、人間の心を深くつかむということは出来ないものなのである。

そこに一つの思想があり、一連の言葉があれば、そこからその方の思想が前後際断されるようなものが本来の言葉の生命であると思われる。人生が前後際断され、運命が前後際断され、崇高なる想念が湧きおこってくるようなものでないと本物とはいえないのではないかと思うのである。

確かに静謐な書というものもあるが、その静謐さの奥には、限りなく透明な熱情が隠されていることが多いのではないかと思う。それ程までに、情熱の力というものは仕事をしてゆくものである。

情熱を込めてつづられた書というものは、その中に永遠の情熱が刻印されているものである。その文章に接する度に、無限の情熱を汲み出すことが可能なのである。確かに人間というものは言葉だけでは動かないものであろうが、しかし、それが真に全人格の込った言霊ならば、必ずや、魂の奥底から人間を動かすことが出来、その魂に聖なる情熱の灯をかざすことが出来るものなのである。

一行一行が一生である。永遠の生命がそこに刻印されていなければならない。生命の糧となる言霊が必要なのである。現代の人々は、たとえ物質的には満たされていたとしても、生命の言霊に飢えている方は多いのである。生命の言霊に渇いている方は多いのである。

人間が哲学に求めるものとは、本来、生命の糧となる言霊であり、思想ではなかったのであろうか。真に生命を養うためには、どうしても崇高なる言霊が必要なのである。このような崇高なる言霊を学びつづけていないと、魂は次第に劣化してしまうものである。生命の糧次第で、大空の星のように崇高なる存在となりもすれば、志の全くない虫(無志)のようになってしまうこともあるのが、我々人間なのである。

故に、魂を真に感動させ、崇高な本来の高みへと導いてくださるような書こそが望まれているのである。真なる生命の言葉は、我々の心の内に宿り、更なる生命の言葉を生み、生命の行動を生んでゆくものなのである。

人間は、本来、限りない可能性を潜めているものであって、その大きさは、同時代でもなかなか判かりにくいものである。例えば、孟子の一言一言であったとしても、後世にこれ程の影響を与えてゆくということは、その同時代ではなかなか判かりずらいものなのである。

この孟子の一言一言がいかに重いものであるかということは、吉田松陰の「講孟箚記」を読んでみれば分かる。松蔭の魂の中では、孟子の一行が何と鮮やかに再現され、生命をもって表現されていることであろうか。松蔭から出た孟子の言葉は、必ずや人々の心をつかみ、動かさずにはいないのである。

吉田松陰は比較的歳若く亡くなっているが、その書物や言動は永遠の輝きを放っており、或る意味において、年齢を超越している感がある。そして、同時に、若さ独特の熱情に満ち満ちているのである。それは、永遠の若さであり、永遠の青春であり、決して消えることのない青年像であり、人物像であり、時代精神でもあると思う。

故にこそ、吉田松陰は、真に後世の人々に到るまで人間を動かし、人心をつかみつづけた方であるのであり、このような方の文章や思想が遺っていて本当によかったと思うのであるが、真の意味での哲人とは、こういう方のことを言うのではないかとも思われる。このように、我々に永遠を感じさせてくれる古典というものは、常に自らの側に置いておき、そこから汲めども尽きぬ叡智とエネルギーを魂に刻印しつづけなければならないのである。

よくよく考えてみれば、哲学者の中で、情熱のなかった方など居られるのであろうかとも思う。例えば、セネカは、文字通り己が生命を賭けて哲学をつづっていたのであろうし、キケロにしてもそうなのであろう。一言で情熱とはいっても、一つの思想を創り上げる程の情熱は、並大抵のものではないであろう。このような崇高なる情熱の結晶こそが、哲学書なのであろうと思う。

また、ショーペンハウアーにしても、秘めたる情熱がなければ、「意志と表象としての世界」は生まれなかったであろうと思う。まさに、全世界、全人類と、聖なる情熱をもって格闘した成果がこの書なのであろうと思う。

そこには、透徹した眼差しの奥に、何ものにも怯まない自信と情熱と確信が読みとれる。その格調高い文章は、あたかも芸術作品をも思わせるが、その文章の一行一行には魂が込っており、まさに生命の言葉そのものが詩的にも語られているといえよう。

その透徹した情熱は、哲学する情熱を喚起して止まない。その透徹した哲理は、本質を探求する力をふつふつとふつふつと内からこみ上げさせるのである。ショーペンハウアーは、厭世家でも人間嫌いでもなく、むしろ、世の中を切に愛し、人々を情熱的に愛そうとした方ではなかったかと思う。

またさらに、エマソンにしても、確実に時代精神を射程に置くその情熱は、並大抵のものではないであろう。これだけ時代精神について雄弁に語りつづける方がどれだけ居ることであろうか。時代精神というものは、そもそも熱情的なものである。優雅にもみえるエマソンの心情の奥には、時代精神を把んでいるという法悦のようなものがみなぎっているのである。

このように、聖なる情熱は、哲学者の永遠の故郷なのである。

天川貴之:JDR総合研究所・代表

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