杉本21)『福翁自伝』を多角的に読む:慶應福澤研究センター講座受講記[1]

「アーカイブ」より:慶応義塾福澤研究センター講座“『福翁自伝』を多角的に読む”受講記〔1〕

                             杉本 知瑛子(平成9.文・美卒)

 10月13日慶応大阪リバーサイイドキャンパスに於いて、慶応義塾福澤研究センター講座“『福翁自伝』を多角的に読む”(講師:慶応義塾福澤研究センター西澤直子教授)を受講した。

自伝と言う書物は本人により書かれたものである。本人が書いた物であるから全て真実なのか、そのことに対する疑問は前回述べた通りである。

本人の生き方や思想は本人が考えるように書かれていることは確かである。だが、長い一生を述べるのに全てを書きつくすのは不可能であり、そこには、書かれてある事実と書かれていない事実が存在するのも又真実である。

“『福翁自伝』を多角的に読む”の初回セミナーは、福澤先生がその著書内で述べられている内容に基づいた話であった。

講師の先生から講義内容を詳しくまとめたプリントを頂いた。

1、「一身にして二生を経る」人生、

2、『福翁自伝』の成立

3、『福翁自伝』の刊行

4、『福翁自伝』の構成

5、和田英『富岡日記』

6、中津と福澤諭吉

7、最良のモデルとしての中津

8、『福翁自伝』における中津の役回り

以上の項目について、先生はそれぞれの解説を詳しく進めていかれた。この内容を2時間で話されるのであるから、相当な早口と的確な言葉で息を呑む暇も無く過ぎた2時間であった。

講義内容をまとめたプリント以外に、『福翁自伝』から福澤諭吉が重要視した事項を推考する為の下記の資料も頂いた。

*口述校訂原稿「幼少の時」=冒頭部分、「門閥制度ハ親の敵」部分

*口述校訂原稿「王政維新」=「日本国中唯慶応義塾のみ」部分

*口述校訂原稿「老余の半生」=「人間の欲=際限なし」

*『福翁自伝』の数量的分析表

草稿番号、中見出し(章名)、ページ数、小見出し数、段落数、総行数(比率)、

行数内訳(速記者、福澤加筆、速記・福澤同数、以上それぞれの比率)が記載されてある。

これらの資料から判明する、福澤が『福翁自伝』によって何を世に問おうとしていたのか。

⇒明治維新までの記述が8割を占めるのはなぜか?⇒若かりし頃の自分を通して訴えたいものは何か?先生からの問いかけである。

「日本の若かった時代(明治30年位)の労働意識・国意識などと執筆当時の自分達の新しい感覚で日本を作っていかねばならない〈特にヨーロッパを見聞してからの考え方)という、そのような維新と明治30年くらいの時代の違いを訴えたかったと考えられる」

『福翁自伝』数量的分析表による記述の割合から読み取れる事項の1つであった。

『福翁自伝』の数量的分析表は、それを目にするだけで一目瞭然、彼の生涯のどの時代に何を考え、それにどの程度のページ数を割き又加筆を加えたかを読み取ることが出来る。『福翁自伝』の読み方が根本から変わってしまう。この分析表から受けた衝撃は凄まじかった。

昔、シューベルト『冬の旅』の研究をしたことがある。シューベルトは32歳で亡くなるまで、1000曲以上作曲した。歌曲は600曲以上である。『冬の旅』は歌曲集なので、資料として歌曲全曲を作曲年代順に分類整理した(作曲日時、曲名、作詞者名、使用されている調子など・・・)資料を目にして、あまりに無機的な数字と横文字(独語)の羅列に、ここから一体何が読み取れるのかと、一ヶ月間のた打ち回っていたことがある。600以上という曲は彼の人生そのものであり、楽譜から音(詩と音)として感じ取れるような想念ではなく、その分類表からは作曲という彼の行動を通じて、彼のその音楽に対する思い入れや作曲への執着を読み取らねばならないのである。一ヶ月目には、彼の持つ多くの伝説(定説)が疑問だらけであることに気がついた。そうすると、そこから一つ一つ疑問の解明に多くの別の資料の精査を始めることが可能になった。

その時の資料に対する感動と同じものを数量的分析表に感じてしまったのである。

11月24日、2回目のセミナー(関西大学経済学部 浜野潔教授)は「福澤諭吉と大阪 家族・学問・商才」についての解説であり、大阪(関西)在住の塾員である参加者なら皆さん興味を持たれていた話も多かったのではなかろうか。

福澤諭吉の学問の師としては緒方洪庵があまりにも有名であるが、先生から頂いたプリントには父百助や兄三之助の学問の師など、『福翁自伝』では書かれていない学者やさっと読み飛ばしそうな学者達の説明が多くなされていた。しかしただ単なる説明ではなく、それら全てを一つの福澤に対する影響と考えていけば、『福翁自伝』だけでは充分に理解できない福澤の学問や商才の根源を読み取ることが可能なものであった。

特に、野本真城(1797年生まれ、中津藩の儒者。帆足万里・頼山陽に学ぶ。1833年藩主の侍講となる。天保11年の中津藩改革によって藩追放となる)については、一言も触れられていないからと言って福澤を学ぶ上で無視できないことのようであった。福澤が14~5歳頃、漢書の素読を親族の服部五郎兵衛に学んだその後、野本塾に学んだ(白石照山に入門前)というだけでなく、兄との関係〈兄は藩校の事務職=野本真城の助手)や経済に明るい儒者であり、福澤の長崎遊学はほとんど野本派の代表選手として送り出されたようであると考えている学者もいるほどの人物である。

『福翁自伝』で触れられていないと言って無視は出来ない人である。

福澤の商才についてはあまり講義では触れられなかったが、大阪の人間なら福澤の商才を大阪という商人の町にある「適塾」で過ごした経歴(浪速商人の精神の影響)の中に見つけたいと願うであろう。しかし福澤の商才は、幼少時から自然に身についていたと思える処世術、又その時代の学問を志す貧しい青年が必死で考えた処世術の結果であったと考えるべきではないだろうか。福澤が柔軟な頭脳で困難な道を切り開いていったバイタリティーは、現代でも多いに見習わねばならない。

何かをなそうと思えばお金がかかる。福澤はそのお金を自分で作る。ひも付きでない自由な行動をするためには絶対不可欠なことである。必死で稼ぐ方法を考えその分必死で勉学に打ち込む。

奨学金などという優雅な制度がない時代、福澤の小さな“一身独立”の精神は、幼少時代から培われていたと考えることは至極妥当なことであった。2回の講座受講後、『福翁自伝』は自伝小説ではなく、福澤の精神的軌跡を辿るための思想書と考えるべきだと思っている。     (終)     (2012年12月記:杉本知瑛子)

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