杉本20)会員便り:「戦争の時代と大学」・「湾生について」・・・18号

       「会員便り」(会報第18号)

                             杉本知瑛子(H.9、文(美:音楽)卒)

   (内容)

    *慶應大阪シティキャンパス特別企画展

           ~「慶応義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト収集資料~

    *「湾生」についての参考資料

    *佐藤禎朗(H.1、経卒)さん出演のコンサートご紹介

    *椎名雄一郎氏(オルガニスト)のコンサートご紹介:

     「ルネサンス、バロック、モダンのオルガンで聴くJ.S.バッハの世界」

      著書ご紹介:『パイプオルガン入門』(春秋社:2015年3月初版)

*慶應大阪シティキャンパス特別企画展

2016年3月9日(水)~3月16日(水)、大阪シティキャンパス(グランフロント大阪ナレッジキャピタル北館10階)にて「慶應大阪シティキャンパス特別企画展:戦争の時代と大学」~「慶応義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクト収集資料~」が開催されていた。

関連行事として座談会やギャラリートークなども開催されていたが、私は時間が取れず展示資料のみの見学となった。

以前、知覧特攻平和会館に残されている遺書や手紙を読んだときの衝撃が忘れられず、今回の企画展は是非見学をと思い駆けつけた。

先ず最初に展示されていた「宣戦ノ詔書」(巻物:市販品)、「真珠湾攻撃時使用の鉢巻」(実物)、「教練検定合格証明書」、「教練服」(実物)、「幼稚舎生による慰問画」、「疎開中の幼稚舎生の葉書」、「死亡通知書」、「捕虜収容所からの手紙」、「海軍神風特別攻撃隊筑波隊員の寄せ書き」(この寄せ書きに名を記した18名の内17名は特攻で戦死)、「福澤諭吉肖像入りの米軍伝単」(アメリカ軍が日本人の戦意喪失を狙って上空から撒いたビラ:「自由の何者たるか」を知っていた日本人として福澤を肖像入りで挙げている:実物)、・・・多くの入手困難な資料の数々が展示されていた。

以前読んだ知覧特攻隊員の遺書や手紙はまさしく「涙腺崩壊」であったが、ここでは残された手紙や日誌、写真、遺稿、遺影代わりの絵、等いろいろな資料があったがどれも理性的な資料として心の中に深く刻まれていった。

「私は生まれる世紀を誤った」という予科生の日記には、私達が現代に生きる幸せとこのような時代に生き死んで行かねばならなかったこれらの方々への、一抹の後ろめたさを感じずにはいられなかった。

こういう展示会は是非また大阪で開催して頂きたいと思う。        (杉本)

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*参考資料:「湾生」について

日本統治時代(1895年~1945年)に台湾で生まれた日本人のことを意味する。

~以下は「湾生の帰台イベント」について掲載された文(2013年5月掲載、記:町田)よりの抜粋~

511港生帰台イベント模様

今回来台されたは湾生のご家族は計26人。

5月11日:夜 7:30 花蓮文化創作パークにて湾生と共に《あれから今も、お元気ですか?》としてあの日々の湾生らの物語を分かち合いました。

① 土井準一さん(70)は徳島県小神子村から来られた移民3世。

今回は彼にとって生まれ故郷である吉野村への初めての帰還となります。土井さんは、鹿児島から上陸して吉野川に戻るまでの道のりは非常に険しく、徳島に戻っても何もなく、それどころか現地住民に病原菌を持ちこまれると恐れられ、誰も受け入れてくれず、あまりにも苦しい生活に耐えられず多くの人が離れていき、現在この村に残っている世帯は土井夫妻のお二人だという事です。この小神子村は花蓮にそっくりで、木瓜渓の蜿蜒と花蓮港の澎湃、更にはタロコの美しい奇岩まであるそうです。

②お住まいだった吉野村郵便局を探し続ける清水さん(98)と息子の清水一也さん。

清水一也さんご家族は既に昨年家族の台湾での出生戸籍謄本を持ち帰っており、おばあさんのために用意した郵便局の模型を持ち帰るために来台。台湾は彼にとって第二の家でもあるため台日友好関係の懸け橋となることを望んでいます。

③度々来台するもずっと出生戸籍謄本の申請が出来なかった吉村和就さん。

祖父の吉村佐平さんが花蓮港信用組合即ち花蓮二信の創設者の一人であり、花蓮港の開発に非常に力を入れていたとのことです。吉野圳について数多くの著作を残し現代の日本水利と経済政務に対して多くの貢献をした官僚で自身の出生戸籍謄本を持ち帰り、自身の生まれ故郷を尋ねるために来台。

④竹中信子さんは近代日本女子歴史の著名な作家。

家族の出生戸籍謄本を受け取りに来ました。彼女は台湾ラムネソーダ、蘇澳製作総工場がラムネソーダを台湾に広め、台湾歴史の懐かしい味とさせた竹中家の娘です。日本に返還される前、彼女はペットと別れずにいつまでも台湾に残るため、大人に見つからないように彼女の猿を連れて山地に隠れようと試みたそうです。今回は竹中家でお手伝いをしていた使用人の娘、林愛子さんが花蓮空港での出迎へをされました。

⑤84歳の須田姉妹は、「今でもワンワン(須田家が飼っていた子犬)が私たちの後ろを追い掛けている情景を覚えているわ。その日は私達が日本へ強制帰国される日で、ワンワンに良い子にして病気をしないように。ちゃんと食べるようにと言いました。ワンワンは切なそうに私たちを見つめ、車が走り出すとワンワンは後ろをずっとずっと鳴きながら追いかけ、ワンワンの声が聞こえなくなりワンワンの影が見えなくなるまで走り続けていました……。」と懐かしそうに話します。須田さんが暇さえあれば故郷に帰ろうとするのはそこにはあまりにも多くの名残惜しい思いがあるからです。今回は姉が妹を連れて出生戸籍謄本を自ら受け取るために帰ってきました。

⑥清水多美江さんは吉野村第三代・第四代村長・最後の郵便局長清水半平の娘。

父のまとめた吉野村回顧録は、移民村または吉野村の文史を研究する者たちが必ず拝読するバイブルです。清水半平が余生をもって吉野村の過去を描き出し、移民たちの記録を記す前、彼は吉野村を台湾一規模のある模範村にしようと心を尽くし、当時は日本国内で最も移住したい場所に選ばれたほどでした。当時台湾の家事使用人はよく「私達の便所は家の外にあるのに、日本人は不衛生で便所を部屋のそばに造っている。」と言っていました。彼女達は台湾人の居住する村に戻ると台湾住民たちに「もっと不衛生な家があった。大きな家ほど部屋の中にまで便所がある!」と言ったそうです。台湾女性は当時吉野村が水洗式便所とスイートルームの設備を持つまでに先進していたとは全く知らなかったのです。今回清水多美江さんは故郷を尋ね自ら出生戸籍謄本を受け取るために来台。

⑦松本恰勝さんは、昨年自ら出生戸籍謄本を受け取りました。

多くは語らずいつも微笑んでいるのみですが、カメラ片手に至る所を撮影することが好きで、木の板に刻まれた文字をまじまじと見つめ「これは私の父の名前です!」と言いました。今回手術のため自ら台湾に渡って出生戸籍謄本を受け取ることが出来ない従妹に代わって従妹家族の出生戸籍謄本を持ち帰るため、娘と共に来台。

⑧富永勝さん(86)は吉野村の老湾生の移民2世。

記者を引退してからの人生は、台湾の記録に没頭しました。彼の書斎の中は全て台湾に関する書籍と関連資料で埋め尽くされ、本に囲まれた小さな椅子と小さな灯りが彼の台湾研究・記録をする仕事部屋です。撮影クルースタッフはこれほど台湾を恋しく思う人がいるのかと驚き、ドキュメンタリーの監督は「実際に彼らと触れ合ってのみ体感することができ、感動を受けることができる。」と言いました。もう一度帰れると知った時、彼は嬉しそうに誰々に会いに行くんだと話し、今度会えなかったらもう次はないでしょう!と言ったそうです。しかし台湾にいる10人の友人の内1人しか見つけられず、そのおじいさんは台東で床に伏しているため花蓮に来ることは出来ません。残りの者は皆亡くなっており、中でも最も仲の良かった1人も今年亡くなられたばかりで一番仲の良かった友人のもとにお香を上げに行かれるそうです。

⑨片山千歳さんは生涯彼女の娘を探し続けた花蓮の芸子。

運命のいたずらにより、生前は台湾に遺留した娘を見つけることが出来ませんでした。娘の片山清子は生涯なぜ母は私を捨てたのかと問い続け母親を探し続けていた湾生。「もう再会することが出来ないならせめて母の遺灰」を探したいそうです。

これらの記事を参考に、今回台湾三田会の柴山晴哉(顧問)氏よりご寄稿頂いた

「台湾三田会便り」を読み、それまで知らなかった「湾生」について台湾の方々の

日本人への変らない温情に感動を新たにしている次第である。     (杉本)

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