塩野6)神農さんと適塾と福澤諭吉先生・・(24号)

神農さんと適塾と福沢諭吉先生

                              塩野 秀作(76年 商学部卒)

                                                                                        大阪慶應倶楽部副会長

○私と生家増本家と塩野家の紹介

私が経営する塩野香料株式会社は、文化5 (1808)年、大阪道修町に塩野屋吉兵衛が創業した薬種問屋「塩野屋吉兵衛商店」に始まる。三代目吉兵衛は大阪薬種卸仲買商組合総取締を務め、大阪製薬(現大日本住友製薬)、道修薬学校(現大阪薬科大学)、愛珠幼稚園の設立に尽力。サントリーの創業者鳥井信治郎氏は、小西儀助商店で修業されたが、その創業者小西儀助氏は、明治初期に初代塩野吉兵衛の四男 塩野宗三郎氏の個人商店にて修業をされた。(『船場大阪を語りつぐ』P.125参照 和泉書院)

私の生家の増本家は、第8代将軍足利義政に忠勤した藤原貞通(山内一豊の祖)の孫、藤原栄通が、第9代足利義尚に佐兵衛祐として忠勤し、その次男左六衛門丞藤原栄豊が、文亀2(1502)年8月丹波国より播磨庄神吉に遷住、その嫡子藤原豊永が、大永7(1527)年君公より藤原姓増本之号を賜り、二見(兵庫県明石市)に移住、全国の増本家の総本家とされる。江戸時代には、回船問屋を営み、北海道の松前から鰊や鰯を大量に仕入れ北前船で運搬し二見海岸で天日干しを行い肥料販売し財を成した。「干鰯家」と呼ばれた生家の家屋は、寛政2(1790)年に村一帯の大火直後に建築されたもので、明石市から平成13(2001)年7月4日に『都市景観形成重要建築物』として指定され、その銘板(写真1)が門脇に設置され、その外観(写真2)は現存する。

増本家は、長兄光平で25代目となる。明治24(1891)年、曾祖父増本弥市郎は米国ミシガン大学法学部を卒業後、住友本社からの理事就任要請を断り、家業の回船問屋、小作管理と不動産管理に多忙であった。帰国後、従一位入江為守米国法学博士を始めとする欧米大学卒業者と在学生合計19名で集合記念に撮影した写真(写真3)と羊皮紙の卒業証書が現存する。

祖父光次は、旧制第三高等学校、京都帝国大学法学部を大正7年に卒業し、当時のGNPの1割に匹敵する売上高を誇る大商社鈴木商店に入社。同年11月焼討ち事件発生、大正13年10月に父が逝去し、事業と家督を継ぐために大連副支店長を最後に退職したので、破綻する昭和2年4月には在籍していなかった。後、二見町長等公職を務めた。戦後、農地改革で多くの水田を失った。

父常守は、広島県の出身で10人兄妹の9番目五男であった。旧制第六高等学校、東北帝国大学工学部を卒業。化学会社において昭和34(1959)年に米国化学会社の技術導入に功労。熊本工場長、取締役技術本部長、子会社社長を経て経営不振の得意先の社長に就任。身を挺して再建に成功し、その後会長、相談役を務めた。

父の次兄は、上智大学名誉教授、松尾芭蕉の研究者として知られている佐藤幹二である。

父の四兄は、東京大学教授、東京芸術大学教授を務め、文化功労者の吉川英史である。伯父は、宮城道雄記念館館長を長く務め日本邦楽協会会長を務めていた。

私は、5人兄妹の四男で塩野太郎の次女を嫁として結婚したが、塩野家を継ぐことを念頭に9年後に増本秀作一家5人が養子縁組し、塩野家六代目となる。

三代目吉兵衛の弟義三郎が、明治11年に隣に分家し、塩野義三郎商店を始め、その後、欧州で勉強し洋薬を輸入し、現在の塩野義製薬に発展してきた。

○道修町と神農さん

大阪の祭りは、今宮戎神社の「十日(とおか)戎(えびす)」で始まり、道修町の「神農(しんのう)祭(さい)」で終わる。神農祭は、毎年11月22、23日の両日、薬の町 道(ど)修(しょう)町(まち)(大阪市中央区)の少彦名(すくなひこな)神社(写真4)にて催され、道修町通に屋台が出てお祭り気分になる。江戸時代には、道修町の薬種商124軒が株仲間として幕府から生薬を独占的に扱う特権を得た。長崎港に荷揚げされた漢薬(生薬)も、一旦 大阪道修町に集められ、中買である薬種商が、薬種の適性検査・鑑定を行い、全国に流通した。安永9(1780)年に、京都の五條天神より日本医薬の祖神・少彦名(すくなひこな)命(のみこと)の分霊を道修町にあった仲間会所に勧請し、すでに祀ってあった中国医薬の祖神・神農炎帝と共に祀ったことにより、少彦名神社が創建されたと言われている。地元では、少彦名神社に対し親しみを込めて「神農さん」と呼ぶ。

五葉笹に吊り下げた黄色い張り子の虎がお守りとして有名だが、この言われは、文政5(1822)年全国でコレラが大流行し、道修町の薬種商は、疫病除薬として虎の頭骨を砕いて作った丸薬を無料配布した。その時、張り子の虎を作り、丸薬と共に神前で祈願を行い、病徐祈願のお守りとして配ったことから、それ以来、黄色い張り子の虎がお守りとなって現在に至る。

製薬企業の本社が、数多く道修町に軒を並べていた昭和40~50年代は、多くの参拝人で賑わっていた。製薬企業の本社移転が続いたため、一時の賑やかさはないが、最近はNHKテレビ・新聞等で報道されたこともあり、少彦名神社には病気治癒や健康を願う参拝人が多くなった。またゆるキャラの縫いぐるみも出て、減少傾向にあった参拝人数は増加傾向にある。

○緒方洪庵の適塾と福沢諭吉先生

大阪市中央区道修町周辺は、古い歴史を感じられる街である。蘭学者・医者として有名な緒方洪庵が、江戸時代後期に大坂船場に開いた蘭学の私塾適塾(写真5)が、弊社本社のある道修町通りから350mの所に在る。適塾は、現在の大阪大学医学部及び慶應義塾大学医学部の源流の一つとされる。

天然痘(疱瘡)が流行していた嘉永2(1849)年11月に緒方洪庵が除痘館を、大坂古手町(現在の美々卯本店別館)に開設した。その当時、牛痘種痘法は、一般人に理解が進まず、率先して種痘を受ける人は稀であった。医師である緒方洪庵との信頼関係によるものだろうが、二代目塩野屋吉兵衛は、開設後の翌月に5歳になる三代目に牛痘種痘を受けさせた。その証明書は、現存する最古の証明書「疱瘡済証(種痘済証)」(写真6と7)として、除痘館記念資料室(今橋3丁目緒方ビル)に展示されている。安政2(1855)年、福沢諭吉先生が入門し、翌年には塾頭になった。当時、緒方洪庵と親交のあった二代目塩野屋吉兵衛は、福沢諭吉先生とも言葉を交わしたのではないかと想像し大変興味があるが、手元に資料はなく今では知る由もない。

○大阪商人の心意気

明治9(1876)年、日本初のお茶の水幼稚園の開園後、明治13(1880)年6月、三代目塩野吉兵衛が主となり北船場の商人達が資金を出し合い、町内会の幼児保育の場として最初の民間幼稚園として愛珠幼稚園(写真8)(初代園長三代目塩野吉兵衛)が開設された。明治22(1989)年に大阪市に移管された。現在、日本最古の現存する木造の幼稚園舎として現存する。大正7(1918)年に竣工し、平成14(2002)年に保存再生工事完工した大阪中央公会堂は、相場師・岩本栄之助が当時の100万円を寄付し建設され、国の重要文化財に指定されたものである。また現在の大阪城は、幕末期の混乱時に焼失した天守閣を、当時の關一大阪市長の提案により集まった市民募金150万円よって昭和6(1931)年に再建されたものである。大阪商人は、ケチと言われるが、決してそんなことはない。必要な時には、お金を出す心意気を大阪商人は持っている。

(塩野秀作:経営者・塩野香料株式会社 社長)

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