奥村11)私の好きな諭吉の文章(10)・・・32号

   「私の好きな諭吉の文章」(10) 

奥村一彦(80年経済卒)

1 『痩我慢の説』についてこれまで書いて来ましたが、ちょっと脇道にそれたいと思います。といいますのも、従軍慰安婦問題を追及している吉見義明さんが「買春する帝国-日本軍『慰安婦』の基底」という題の本を出版し(2019年6月26日、岩波書店)、その本の中で、まず植木枝盛を登場させ、廃娼を唱えながら遊郭に通うことを公言していた「自由民権運動の闘士」は、1885年ころから日記に遊郭通いの記録が消え始め、ついには「『公許淫売』の制度をやめることは『文明世界』が勧めるところであり、それにより国家の体面を完全に保つことができる、とのべた」とある。

まあここまではその通りかもしれないと(というのは植木なる人物が結局においてどんな程度の思想の持ち主だったかは今では知られているので、あえて記さないが、世に人物伝も出ているので参照されたい。)、その次の段落は福澤に触れて次のように始まる。「これに真っ向から反対して、福澤諭吉は、日本は『売淫社会』になっているとしながら、娼妓は必要であると論じた。何故だろうか。」そして、引き続き『日本婦人論』を引用し、男性が花柳の枝を折る一方で、女性は「深閨に春を空うして再婚の権利をも暗々裏に脱却せらるるが如きは平等であるとはいえない、とのべている」と論を進め、その次に『品行論』を持ち出す。

『品行論』の引用は、福澤諭吉が宴席に芸妓などを侍らせるのはよろしくないと批判した部分を取り出した後、娼妓を全廃すれば女子の淫奔、寡婦の和姦、密通強姦、かどわかしかけおちとなり、また諸処の闘争を生み、社会秩序が紊乱してしまうが、「古今幸いにして斯る惨状を見ざるは之を娼妓の効力と言わざるを得ざるなり」と引用する。

その結論として、諭吉が淫売を隠すことが文明の要請であるとしたことを「女性の人権は問題外だった」、「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』、という『人』には芸娼妓らは入っていなかったのだ。福澤のような議論も存娼論として、買春する帝国の形成を支えていたことになる」と結ぶ。

 

2 論ずべき点は、(1)福澤の紹介はこれで正当か、(2)『品行論』の読み方にも関わるが、この結論は正当か、(3)売春は西欧では今どう扱われているか、であろう。以下、まとめて論ずる。

植木枝盛について、この著者は明らかに評価している。ある時期までは廃娼論を訴えながら「女郎屋通い」(植木の表現)をしていたのに、1885年頃からそれを止めて廃娼をまじめに訴えたということを書いた後に、「これに真っ向から反対して、福澤諭吉は」と続ける。これではまるで諭吉は廃娼を言っていないうえに、女郎屋通いまでしていたかのような印象を与える仕掛けになっている。諭吉が生涯を通じて、そのような噂が全くないことを、著者は当然知っていると思うが、その点に触れないのはいかにも植木を持ち上げ、諭吉を下げようとの意図があると勘ぐってしまう。もし、売春宿にいかなくなった植木を評価するなら、諭吉ははるかに評価されて良いだろう。

『日本婦人論』の紹介も歪んでいる。諭吉が言いたかったのは、離婚後の女性が社会内でさげすまれる傾向にあることを批判して、再婚の権利を擁護した文章であるのに、まるで男女平等の観点から女性に花柳の枝を折れと言っているかのような紹介をしており、不公正きわまりない。むしろ女性解放論として高く評価されている部分でもある。福澤が読まれなくなった今日、このような不公正な紹介は、諭吉を読むことを遠ざける要因にならないか。私の深く憂うところである。諭吉の『日本婦人論』、『日本婦人論後論』など女性論は今でもその輝きを失っていない。例えば夫婦別姓など未だに論議されているではないか。「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』、という『人』には芸娼妓らは入っていなかった」などとの評価はまったくお門違いとしか言いようが無い。ましてや「買春する帝国の形成を支えていた」などとの結論は噴飯物である。

さて、『品行論』について。『品行論』が福澤が存娼論を唱えているとの根拠とされることが多い。確かに、「娼妓の効力」として世の紛争を減少させていると述べているからである。しかし、それはこの『品行論』の読み方を誤っている。注意深く読めば、これは男性に対し注文をつける目的で書かれたものであって、男性の相手として存在する娼妓の存在の不道徳さをあげつらうのが目的ではないのである。また、福澤は世の謹厳実直というか頭の固い道徳家がとにもかくにも不潔きわまりない存在として娼妓を見て、売春を非とするその考え方に異を唱えてもいる。確かに、売春を無くす方法として、女性の方を社会的に到底認めない存在とすることにより、男性が近づかなくなることを期待して、売春が消滅する効果をもつという論を展開している。しかし、容易になくならない売春について、どんな提言も今日まで効果を持たなかった現実からすると、売春を無くす方法として、表現は福澤流の過激な物言いを使用しながら実際家としての現実的提言を行ったとみることが可能である。

「娼妓の効力」を肯定する表現が、福澤は存娼論者と言われる所以であるが、ここを批判することは本当は難しいことを我々社会は知っている。だからこそ福澤は、将来においては消滅することを期待して、徐々にこれを進めるという提言をしたのである。これを存娼論と言うべきであろうか。福澤は、未婚の獣身たる男性の盛んな性的行動が実際に存在することを正面から認め、これを社会としてどうコントロールするか議論しているのである。これに正面から立ち向かわない議論はしても意味がないどころか、売春する女性を本当に畜生的な目でみる習慣を付けさせる役割を果たすだろう。

最後に、現在の西欧ではどうか。EU加盟国はほとんどが売春を公認している。つまり正式な職業として認め、税金を徴収し、売春に伴う社会の諸問題を解決する手立てを講じている。映画にも普通に紹介されている。売春は、事務職業などとは違う、難しい問題を孕んでいる。できるならしない方が良い「職業」ではありつづけるだろう。根本的には女性の人権にもかかわる問題を持っている。しかし、これを蔑視するがあまり、特に東洋の道徳は、実態を知りながら邪悪なものとして表面上擯斥することを教えているように見える。しかし、獣身としての性欲を見ないことにする方が、女性を貶め、男性の放縦を黙認する傾向を生みはしないか。EUの売春政策の転換を契機に、議論が必要だと思われる。これに付言すると、イタリア映画で紹介された障害者のセックスへの接近の問題は、障害をもつすべての親に希望を与えたのではないか。最も困難な課題を抱えている分野であるから。

最後にもう一つ。福澤諭吉選集第七巻(岩波書店)「移民論」のうちの「人民の移住と娼婦の出稼」について、これを売春の輸出として福澤の持論の行き着く先のような議論もあろうかと思われるが、これは、娼妓は移民してはいけないという論に対する反論であり、娼妓の移民権が認められないような議論は不可であるとする議論である。結果的に売春婦の拡散に繋がるというのはその通りであるが、国内であるものが国外に持ち出されたら恥ずかしいというのは間違った議論であり、それなら国内でもどう取り扱うかが先行すべきとの意図があると思われる。

以上

(追記)次こそは『痩せ我慢の説』のまとめをしたいと思います。

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