奥村12)私の好きな諭吉の文章(11)・・・33号
「私の好きな諭吉の文章」(11)
奥村一彦(80年経済卒)
1 『痩我慢の説』について、私の一定の見解めいたものを出して、一区切りしなければならないと考えています。それは以下のような疑問や問題点についての見解です。
諭吉は何故『痩我慢の説』を書いたのか
「立国は私なり、公に非らざるなり」が何故冒頭にあるのか
「痩我慢」は立国の本であるというが、本当にそうか。
「痩我慢」しなかったことの悪影響はその後どのような形でわが日本に出現したか
これらの疑問に一定の見解がなければ、『痩我慢の説』を理解したとは言えないのではないかと考えてしまうのです。そこで、現時点における簡単な見解を示そうと思います。ただ、福澤読解についてはまだ未熟な私ですので、十分であるはずがなく、将来の検討の一里塚としたいと思います。
2 諭吉は何故『痩我慢の説』を書いたのか
直接の動機になったのは、静岡県の清見寺で旧幕府軍を祀った石碑に榎本が碑文を寄せ、そこに新朝政府の肩書きを書いたのを見つけ、怒ったことでしょう。これはよく知られた事実です。怒りの内容は『痩我慢の説』にも書かれているとおり、旧幕臣として敵と闘って負けた指導者が、勝った敵側の重職に引き立てられて得々としている姿が醜く、今すぐ官職を辞せよという怒りです。これは個人的怒りなのか、いやこの怒りは過去の歴史に照らして人類の持つ普通の感情なのか。もちろん諭吉は後者であると結論しました。自分一人の怒りではない、武人の生き様を問うべき事態が目前に起こっているという怒りが突き動かしたのでしょう。
3 「立国は私なり、公に非らざるなり」が何故冒頭にあるのか
そこで福澤はその怒りを文章にして残して置こうと考えた訳です。しかし、紙の上に文字を書いて文章とすると、その作品はできたとたんに書いた当人から離れ、独立した存在として歴史の中で存在してゆく運命ですから、仮に怒りを文章にするにしても、普遍性を持たせるものでなければなりません。文章のもつ宿命を深く理解していたということが出だしの表現を引き出したのだろうと思います。
ではどのような思考を辿ったのでしょうか。想像してみます。
発端は、清見寺で榎本の碑文を見て福澤は怒ったのですが、その後、次のような経過を辿ったのではないか。榎本は北海道まで逃走しながらも良く官軍と闘った。しかし官軍には勝てずやむなく降伏した。その後、福澤は榎本の助命嘆願に協力し嘆願文を書いた。そしてなんとか榎本の命を救った。ところが、その当人が今、敵方であった官軍の中に入り、青雲の志まで起こし、取り立てられ、重職を担うばかりでなく、爵位まで受けて得々としているのはいったいどういう了見か。幕府のために部下を死屍累々殉職させた指揮官ではなかったか。部下らの忠はこれでは浮かばれない。何のために命を捨てたのか。榎本よ、よく考えたのか。
とまあ、こんな風に考えて、しかし幕府への忠なんて言っても所詮、区区に分かたれた狭い社会内で自分が勝手に首領と決めた者へ尽くす犠牲の精神にすぎず、それを他人に押しつけることはできない。ただ、そうは言ってもその首領と目された者=指揮官は違うだろう。その忠を動員して部下を闘わせたのだから。つまり幕府の存続を願う気持ちを集めて闘わせたのだ。その忠がなければ幕府も存続しようがないものであったはずだ。結果として負けたのは時の運に過ぎない。そこで、多数の部下を動員した首領=指揮官は勝敗の結果に責任を持ち、本来死すべき首領=指揮官が、偶然生き延びたなら、生涯、尽忠の部下の真情を裏切ってはならない、と考えたのでしょう。
すなわち、幕府を存続させる意思とは立国の意思で、立国を願うのはその者の私的な精神に過ぎないけれど、そう思う者が多数集まらないと立国は不可能である。それらの者から首領と仰がれ、戦場の指揮官として多数の部下の忠勇を動員した者は、部下の死とともに生涯を過ごす義務があると福澤は考えたと思うのです。
そこで、まず、「立国は私なり、公に非らざるなり」と、ひとりひとりは自分の忠義の対象があり、敵には敵の忠義の対象があるというもので、それぞれ個人の感情に根ざしていることを宣言します。その上で、首領として選ばれた者は、単なるひとりの忠の実践者とは違うのだぞと展開する布石を敷いた訳です。
福澤が榎本の助命嘆願文を書いた中身に、武人は自分が首領と仰いだ者への忠を尽くして闘うのが義務であり、私怨ではない。たまたま生け捕りにした以上、その勝算無き闘いを闘った闘いぶりをほめ、生き証人として生かすことこそが後世の鑑となる、というようなことを書いたのかなと想像します。
4 「痩せ我慢」は立国の本であるというが、本当にそうか。
福澤は「痩せ我慢」は、いかなる艱難辛苦の境遇に陥っても節を枉げず、敵に向かう精神であるが、これがなければ立国は覚束なくなると言うのです。これはあまりにも正しすぎる立言で誰も否定しようがないくらい崇高なものですが、果たしてここまで言わなければならないのか。
確かに、敵前逃亡をしてしまうような兵隊ばかりあつまっても到底闘いには勝てないし、ましてや指揮官がトンヅラするようでは話にならない。そうならないためには、首領は首領となる覚悟が必要なのだ。その覚悟とは正しい闘いと信じたならばどこまでもそれを追及する姿勢であり、勝算は埒外であるという信念でしょう。それに殉じた人々は世界中で見いだせます。闘いだけでなく、例えば学問の世界でもそうでしょう。宗教の世界でもそうです。少数者としての立場を自覚してそれを捨てない。それが人類の進歩をもたらしたのも事実です。
しかし、それらを全員に求めるのは難しく、そこで、せめて自ら首領=指揮官となった場合には強く求めるぞというのが、福澤の執筆意図だと思うのです。指揮官は自分一人の感情で動くのではなく、もうそこは多数の人々の気持ちを統率し、適切な判断をする義務を負っており、その判断は運命共同体の命運を左右します。従って、その立場は指揮官個人のものではなく、それこそ公的立場と言わなければなりません。
榎本と勝に求めたのは首領だった者としての役割でしょう。立国はトップが模範を示す、その根本は絶対に節を枉げない指揮官が必要で、負けた場合はそれを生涯重荷として背負うことができる者だけが首領になるべきだ、というのが「痩せ我慢」の中身と思います。
5 「痩せ我慢」しなかったことの悪影響はその後どのような形でわが日本に出現したか
この問いが最も重要で、困難な課題です。でもこれに答えないと、福澤の主張は単に榎本と勝を批判しただけのものとなります。
試みとして書くだけですので、あまり深い思考はありません。一つの例は、1933年6月以降の共産主義者の転向と言われた現象で、もうひとつ加えると、戦後の権力者のアメリカ礼賛の姿勢かな。
どちらもいわば長いものに巻かれろという説明が可能で、立国を思う立場からは痩せ我慢を発揮すべき場面があったのではないかと思わせるのです。
しかし、前者は西欧思想と日本思想の対決という別の観点での説明がつきそうですし、後者は絶滅まで闘えなどという途方もない結論を招くようで怖いです。しかし、指揮官の戦争の責任の取り方は福澤の「痩せ我慢」を持ち出してもいいのではないかと思うのです。負けたなら潔く責任を取り、戦後の社会にはびこるな、くらいは言えそうです。実際に責任をきちんと取って人生を終えた軍人、例えば本間雅晴、今村均などもいたわけです。
ここは将来の課題として、今後も考えていきたいところです。
(『痩せ我慢の説』については一区切りとし、次は福澤諭吉の憲法論あるいは政体構想を論じたいと思います。)