奥村一彦(20)~私の好きな諭吉の文章⑳~・・・42号

      「私の好きな諭吉の文章」(20) 

                                奥村一彦(80年経済卒)

 

Ⅰ 抵抗の決断 -ゼレンスキーの「痩我慢」 

Ⅱ 慶應シティキャンパス講演会(都倉武之先生、米山光儀先生の講義)出席して

Ⅰ 抵抗の決断 -ゼレンスキーの「痩我慢」

1 2022年2月24日、この日、この年齢(66歳)になって、大国(ロシア)が小国(ウクライナ)に理不尽にも攻め入る「侵略」行為を眼前に見るとは思いもよりませんでした。この事件が私に劇的な印象を与えたのは、小国の指導者が大国の脅しに屈せず、抵抗を決断したことです。直ちに、福澤諭吉の『痩我慢の説』を思い出したのは、この福澤の名作を知る人なら誰しも同じだったでしょう。唯に思い出しただけでなく、眼前に迫る武力による殺人と財産毀損に耐えてなで栄誉を維持することがそれほど重要なことだろうかとか、結果から見た場合にその決断は正しかったと後から評価されることになるのだろうか、など未知の世界に突入してしまったウクライナのことを思うと、心配と不安が充満しました。また諭吉が言ったことも試されるだろうとも思いました。

2 私は、実は、ロシアの侵攻の前日まで、ゼレンスキー大統領がNATOに加入しない、あるいは当面保留するといえばプーチンは侵攻の理由を失うし、何よりウクライナの財産の毀損や生命の消失は免れるのだがと、それはないのだろうかと喉まで出かかっていました。

しかし他方、もし大国のその意を受け入れれば、国境で「演習」という名の「武力による威嚇」をしている国に対し屈服することになり、そもそも国連憲章の武力による威嚇禁止の条項に反するし、なによりウクライナという国のそして民族の屈辱になるだろうと思い、屈服の選択はなかろうとも思いました。いや、ないことを願ったといほうが正確です。果たして、ゼレンスキーは抵抗を決断しました。

諭吉の言う「大国に合併するこそ安楽なる可けれども、尚ほ其独立を張りて動かざるは小国の痩我慢にして、我慢よく国の栄誉を保つものと云う可し。」(『痩我慢の説』)を実行したのです。「殺人散財は一時の禍にして、士風の維持は万世の要なり」が真実かどうかが歴史的に問われることになりました。

無論、映像上で繰り広げられる、惨殺や建物破壊のシーンが愉快なはずはありません。しかし、抵抗を選ぶとなると、現実の武力衝突である以上生命の危険、財産の毀損避けられません。またしかし、相手に攻め込まれた以上抵抗しなければなりません。「天地の間に火のあらん限り、水の入用なるが如し。」(『明治十年丁丑公論』)。

これからも事態の推移の中でロシアの戦争目的の変化や作戦の変更などがあるかもしれません。しかし、軍事情報がその渦中で正確に得られることは考えられません。もうここまで来たら、ウクライナの人民に栄光あれ!としか言いようがありません。たとえ敗北しても後世の特別の高配を賜らんことを。(2022年4月22日記す。5月22日加筆)

Ⅱ 慶應シティキャンパス講演会(都倉先生、米山先生の講義)出席して

1 都倉武之先生の講義を聴いて

  先日、大阪シティキャンパスで、都倉先生の「福澤諭吉の文章」という講演を、直接聴きました。直接の講演会は、コロナで長い間開催ができなかったので、とても嬉しく出かけました。

都倉先生の講義は、諭吉の文章の平易さ俗さの根源を探りつつ、しかし、福澤は文章だけでは到底理解され得ないところの福澤という人の全体、あるいは起居振る舞いを含むところの身体と思想及びその日常の実践的姿がある、というもので、中身は非常に高度でした。

例えば、(奥村の理解では)福澤は、200年以上にわたり形成された封建時代の上下の絶対的差別は、互いの呼びかけ方(貴様とあなた)、家の作り方、言葉使いや字の書き方の違いにまで及び、また、上士と町人は公には相交わることがなく、下士は町人との生活は比較的緩やかに交わるなど、日常の人間の交際が歪んだまま固定していることが人間の進歩を押しとどめていると感づいた。福澤は、常に直の世間から一歩引いて、よく見渡し、人々の日常を観察した。そうした深い観察力は、中津体験、大阪体験それに江戸体験から得たであろう。それは、自分との回りの同質性と異質性を強烈に意識することによって生まれてきたものだろうと。そして、相互に不通のものを通ずるようにするには言葉が双方にわかるもの、すなわち俗な言葉を用いて、すべての者に、文明が理解されなければならないと確信した、という風に講義を理解しました。

福澤が言葉に強い関心を持っていたことは『唐人往来』、『学問のす々め』及び『福澤全集緒言』などでも十分福澤自身によって語られているところではありますが、それが現代にも通じるものであることが十分理解されていません。それが私(奥村)にとって悔しいところです。例えば、私の好きな福澤の言葉に「第一がはなし」(『福澤全集緒言』の「会議弁」の項目)というのがあります。すべては「はなし」から始まると思います。福澤の解説もここからはじめたいといつも思うものです。皆さん、大いに話しましょう。

2 米山光儀先生の講義を聴いて

  大阪シチィキャンパスでは米山先生の諭吉の教育論も聴きました。先生の関心は、政府の教育方針である「学事奨励に関する仰出書」と福澤諭吉の学問奨励の中身には、根本的な違いがあるというものでした。明治政府の言う学問の奨励は技芸に長じ、経済繁盛になるよう求めるだけであるが、諭吉は一身の独立を目指す点で真の人間教育であると解説されました。

そこでまた大いに刺激を受け、諭吉の論文をいくつか読みました。諭吉を貫くものの一つは、要するに「倫理道徳は固定してはならない、変化するものである」というものです。よって国の作成する倫理教科書などもってのほかと断言するものです(『読倫理教科書』明治23年、教育勅語発布の前。)。また、政府が誤った方針を執り、腐った儒教主義を学校に持ち込み、その害毒はすでにあらわれたりといいます(『教育の方針変化の結果』明治25年11月。)。まことにそのとおりで、『教育勅語』、『大日本帝国憲法』など、明治14年政変後、次々と歴史の進歩に反する潮流が生み出されたこれらの害毒は、その後、憲法の解釈を硬直化させ(天皇の統帥権の干犯などの横暴な議論の出現)、酒飲みがさらに酒をほしがるように夜郎自大な領土拡大、大陸進出の誇大妄想を膨らませ、ついには第二次世界大戦まで引き起こし国民を破滅の道まで陥れました。

明治政府が諭吉の言うことをよく聞いていれば(「交詢社私議憲法草案」を取り入れ、「修身要領」を拳々服膺すること)、こんな歴史は避けられたのにと強く思う次第です。

(先日、5月11日、三田の演説館で福澤諭吉協会の一日史跡見学会があり、参加しました。演説館に入れたこと、そこで都倉先生の「慶應義塾史展示館」開設披露の説明があり、また、見学会も催されました。これは次回の文章にしたいと思います。)

以上

 

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