奥村18 )私の好きな諭吉の文章(18)・・・40号

「私の好きな諭吉の文章」(1 

奥村一彦(80年経済卒)

 福澤諭吉から森鴎外にちょっと寄り道、番外編第2(森鴎外問題と福澤諭吉)

1 森鴎外問題とは、鴎外にまつわる諸問題のことで、鴎外ともなると偉人だけに、様々な点で現代の私たちに問題を投げかけています。

私がこの数ヶ月で当面したものだけでも、(1)鴎外の死にまつわる問題(遺書、死に臨んだ鴎外の態度、死因)、(2)陸軍軍医として脚気問題へのかかわり方(科学から何故目をそらしたのか)、(3)翻訳の問題(省略と基督教消去)、(4)あこがれの女性像問題(ドイツ女性との恋愛と帰国後の一連の創作)、(5)鴎外の創作における歴史事実との関係、(6)(私にとっても不快な)黄禍論との対決、(7)西欧的近代化の中での伝統の位置(発端にナウマンとの論争)、など、ざっと気がついたことでもこれくらいあります。鴎外研究をしている人はもっとたくさんの問題に気がついていると思います。

そして、特に(2)脚気問題の中で、福澤と交錯することがわかりました。これはドイツ医学対イギリス医学、陸軍対海軍、権威的態度と謙虚な態度、という形で表示することができるものですが、福澤とは松山棟庵を間に介在させ、海軍の脚気をなくした軍医高木兼寛とこの問題で交錯します。これは、あえていうと東大系対慶應系の対立ともいえます。鴎外最大のスキャンダルです。

2 問題ばかり先に並べましたが、鴎外の作品(創作小説、評論、イプセン・ストリンドベリーはじめドイツ語とドイツ語に訳された西欧の戯曲や小説の日本語訳、美術系大学での美学の講義などなど)は、とても品格があり、日本の伝統思想との葛藤ありで、やはりまず読まなければなりません。これらの中には、鴎外自身を彷彿とさせる作品も多く(『妄想』、『なかじきり』、『半日』、『かのように』、など各作品には鴎外の分身とも言える人物が配されていますし、『礼儀小言』など葬礼について、死亡の場合の葬式の願望まであります)とっても愉しいし、深く考えさせられます。

その上で、あえて先に問題群を提出しました。なお、来年2022年は、鴎外逝って100年の年です。これからたくさんの鴎外ものが出版されることでしょう。

3 鴎外最大のスキャンダルである「脚気問題」は、現在の私たちにも過去の負の遺産からの教訓が引き出せていない点、あるいは私たちの歴史認識を正確に持つ上で避けられない課題を残しています。

簡単に言うと、陸軍軍医団(この中で鴎外は高い地位を占めていました)は、脚気の治療及び予防について、海軍の発見した予防法から学ばず、また科学的知見から学ばず、その結果、多くの兵士を戦闘でなく戦場で病死させ、あるいは深刻な後遺症を残存させたのです。この罪は巨大です。

例えば、日清戦争(清国との戦争と台湾征伐戦争の両方を含む)での陸軍の戦闘死者数は、原田敬一さんの研究では戦死者1417人に対し、戦病死者数は1万1894人で、そのうち脚気死亡者は約4000人(罹患者数は約3万人)、そのほかはコレラ、赤痢、マラリアなどです(なお、死亡者はいないようですが、凍傷で7000人が入院した。)。

日露戦争では、戦争後3年以内に死亡した者を含め11万8000人で、そのうち脚気で死亡したのは約2万7000人となっています。

統計の取り方により各資料の計算結果が違うのですが、日清戦争では、戦闘よりも病気との闘いの方がよほど大変で、日露戦争は、露西亜軍の死亡者数が約2万5000人であるのと比較すると、日本陸軍は装備不十分による人海戦術で多数の犠牲者を出したのが根本原因で、しかも脚気問題を解決出来ず、死亡者のうちの22・8%もしめるという深刻な事態であったのです。

4 なぜ陸軍が脚気問題では、スキャンダルといわれるかですが、それは海軍と比較してのことです。

海軍では、脚気を克服した男として知られる軍医高木兼寛が、イギリス医学を学んで帰朝し、まず、イギリス海軍には脚気患者はいないのに、日本海軍には脚気患者が現れるのははぜかという疑問を持ちます。これを、環境の違いから調べ始めます。ところが船内の環境はほぼちがわないことがわかります。次に、階級の違いはないかに着目します。すると地位が高いものに多い傾向が見られることがわかりました。高木は、地位が高いと給与が違い、それは食べる物に違いが出ると気づきます。そして、海軍の遠洋航海で脚気を発症する場面を疫学的に調査します。いわば壮大な実験をしたことになります。その結果、精製した白米ではなく、パンあるいは麦を混ぜた食事や玄米に近い白米を食べると発症しないこと、また発症した兵士にパンや麦を食べさせるとすぐに治ることがわかりました。これは革命的発見でした。

原因は、今ではビタミン不足とわかっているのですが、世界は脚気の原因についてその糾明のレースがはじまります。残念ながら高木はそのレースには乗れませんでした。当時の医学は、病気は病原菌によるものという考え方が強く(特にドイツ系)、栄養不足による病気という分野は未発達だったのです。高木は、白米の毒を何かが中和するという仮説をたてました。これは結果的には誤りです。イギリスでは、白米を精製する過程で重要なものが脱落するという考え方をとり、後にビタミンという(この場合はビタミンB1です)物質を取り出すことに成功しました。ですのでノーベル賞を取りこぼしたといえます。ただし、高木の名は英国海軍により、南極のビタミン発見者の岬の一つに名付けられました。日本では、田辺製薬が長い時間をかけて開発し、戦後アリナミンとして発売し、脚気はほぼ消滅しました。

鴎外の陸軍は、病原菌説に立って、その立場に固執するだけでなく、海軍の調査結果を歪めて評価し、また、陸軍の内部でも麦食を取り入れようとする現地司令官を更迭したり、陸軍省内でも人事で嫌がらせをしたりしました。その結果、兵士の脚気の予防はおろか治療もままならない状態が続いたのです。

ところが、鴎外は陸軍軍医内部で麦食派を追放する立場に立っていたのですが、心の中に疚しさがあったのでしょう、日露戦争後、脚気病調査会を立ち上げて自分が会長になり、その間、栄養不足説を取る後輩を応援したり、自ら医学本の序文で精米と脚気の関係はあると叙述したりしています。しかし、自説の撤回とか反省はついに見られず、1922年、宮内省の役人の地位で死亡します。上記調査会が、精米と脚気は関係があると公式に述べたのは、鴎外死亡の2年後でした。鴎外は、陸軍内での官僚統制の犠牲かあるいは自説を撤回することには自尊心が強すぎたのか、その両方かで、結局、自ら言った「医学は一なり」を放棄したのです。

鴎外ですら解決出来なかった日本医学の歪んだ歴史を、検証し、謙虚な研究を育てる教育体制が必要であると、問題を投げかけているでしょう。この問題では、鴎外を徹底的に攻撃する人々がたくさんいるのは確かです。しかし、やはり過去は変えられないのですから、教訓を引き出すことが今の我々の立場であるべきでしょう。

5 最後に松山棟庵に触れなければならないのですが、やや時間切れとなりました。鴎外の問題は、これで終わり、諭吉に戻ろうと思っておりますが、次回、松山棟庵に少し触れて、諭吉を論じることにします。

以上

(弁護士:京都第一法律事務所)

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