シューベルト~その深遠なる歌曲の世界~1-①・・・(24号)

杉本知瑛子(97、文・美(音楽)卒)

シューベルト(Franz Schubert:1797~1828)は、その短い生涯で1.000曲以上も作曲している。
歌曲だけでも約600曲にものぼるのである。しかもその作品は、多いだけでなく珠玉の名曲が多く残され、特に歌曲の分野では他の追随を許さない名曲の数々により、今日でも世界は「歌曲の王」と称せられる名誉を彼に与えている。

このように短い期間に大量の作曲をしたために、彼には多くの伝説がある。
例えば、作曲のための詩を選ぶのはほとんどが偶然によるものであるとか、作曲したものには執着せずすぐに忘れてしまう、とかのように彼の楽天的態度が一部の彼の知人達の証言として伝わっている伝説である。ひどいものになると、連歌集“詩(うた)物語”『冬の旅』(『Winterreise』D.911)が、かくも壮絶なる作品となったのは、長年の彼の病気である梅毒が脳へ入ったためで、『冬の旅』を作曲した時期である死の前年は、もう精神異常に近い状態で病気の波の比較的良好な時に作曲されたものだ、といわれていたようなものまであった。

しかし、そうした一部の人達の証言がすべてで、またそれが真実なのであろうか?
問題は、彼の音楽に対する態度であり、彼が音楽に対して取り組んだ姿勢である。
またそれは、その音楽の内容にも重要な意味をなしてくることなのである。
このような彼の音楽に対する態度や、作品に取り組む姿勢、に対する我々の先入観は、彼の作品を演奏したり鑑賞したりする際に、彼の理性的な意思や音楽以外の知識による影響を、無視せざるを得なくしてしまうのではないだろうか。私はこのような伝説を調べることにより、シューベルトの音楽の偉大さを少しでも知る手がかりを得られないかと考えた。

だがその定説となっていた伝説のようなものが、まさしく作曲家の天才や狂気ゆえのものだけであるなら、それは私にとって曲(内在する精神性)を知る何の手がかりにもならなくなってしまう。
彼の環境の特異性はシューベルティアーデであり、あまりにも有名な梅毒という病気である。

そこで、まず彼の病気である梅毒が、死の前年に作曲された至高の作品(精神異常の賜物といわれている作品)『冬の旅』にどのような影響を与えていたのか、もし、梅毒による精神異常の影響がないのであるならば、彼は『冬の旅』の作品で何を表現しようとしたのであろうかを考えてみたい。
これらのことに加え、『冬の旅』が、歌曲・特に文学作品である“詩物語”に音楽をつけた作品という意味で、彼の文学や思想に対する考え方を知ることも、相当重要である筈である。
作品の音に対する重要さと同じくらいに、文学的内容の重要さも認めねばならない、と私は考えている。
(それは、ミュラーの詩の内容という意味ではなく、シュベルトの作曲した“詩物語”『冬の旅』
という音楽作品の文学的内容、いいかえれば、音楽の精神的内容という意味である。)

シューベルトの歌曲集には、1823年の作品「連歌集“詩物語”としての『美しき水車小屋の娘』(D.795)」『Die schöne Müllerin』と死の前年1827年の作品『冬の旅』がある。

*死の年・1828年にシューベルトの死後遺品の中から発見された数々のリートが二分冊に編集
され、『白鳥の歌』(D.957)『Schwanengesang』のタイトルをつけて出版された歌曲集もある。

ギリシア時代の昔から「詩人は神の声を書いている」といわれ、神の声を聞く者は預言者であり、あるいは又狂人であるという考え方が信仰されていた。

音楽家もまた預言者(天才)であり狂人であると考えられ易いが(昔、詩は音楽の一種であった)、シューベルトもそのように考えられていた、といっても過言ではないであろう。
シューベルトの短期間(約15年間の作曲期間)における1.000曲にも及ぶ作品量、そしてベートーヴェンなどに比べて作品の下書きが残存していない、ということなどから、彼の天才性からくる無造作な作曲態度という誤解が生まれ、さらに『冬の旅』などの死と諦念をテーマにした、一連の陰鬱な歌曲などから彼の精神異常が考えられ、その原因として長年彼を苦しめてきた病気、梅毒が考えられてきたのである。
*シューベルトの梅毒に関する医学的研究の詳細は次回に述べる予定である。

シューベルトが初めての交響曲を書いたのは16歳の時で、その一年後の1814年10月19日には、私の愛してやまない情熱的な歌曲、「糸を紡ぐグレートヒェン」(D.118)”Gretchen am Spinnrade”が作曲されている。(またその翌年には傑作「魔王」(D.328)”Erlkönig”が誕生している。)

余談であるが、シューベルトの少年時代の恋人(ただ一度の恋の対象相手)は彼と同じウィーンの郊外リヒテンタールに住む、テレーゼ・グローブという可愛いソプラノの声の持ち主であった。

1814年10月16日、リヒテンタールの教会で、シューベルトの四声、オルガンとオーケストラ
つきの最初のミサ曲ヘ長調が演奏された。シューベルトが指揮をし、テレーゼがソプラノのパートを歌った。その時、シューベルトは17歳、テレーゼは16歳であった。

この作品は熱狂的に支持され、ついでウィーンのアウグスティン教会でも演奏され、喜んだ彼の
父親は息子にピアノをプレゼントした。が、彼女の父親はテレーゼときっぱりと手を切らせた。

ゲーテのファウストを題材にした「糸を紡ぐグレートヒェン」は、この最初の演奏会から3日後に作曲されている。
幸福の真っ只中の作品のはずが、この曲の演奏を聴いた人が“恋しい人への想いに胸が詰まる。
自然に涙が溢れてくる・・・”と流れる涙をぬぐいもせず、一心に聞きいる姿は、恋のために、
産まれた赤ん坊を殺し、母親を殺し、狂気となって、暗い牢獄に閉じ込められ死んでいく少女の、哀れな恋への予感か、『水車小屋の娘』から『冬の旅』へと続く、恋する男の生への執着と諦めと葛藤をテーマにした、壮絶なる作品への予兆を感じてのことか・・・
はたまた自身の青春時代への回想か・・・

(テレーゼは両親の勧めに従い、金持ちが取り得だけのパン屋の主人と1820年に結婚した。)

シューベルトの作品の出版者、ヒュッテンブレンナーは、シューベルトが彼女と絶縁した後の
1821年にこの哀れな求愛者と恋人の物語りについて、次のように打ち明けてくれたと述べている。

“彼女は3年間、僕と結婚することを願っていた。しかし、僕には二人が食べていける職場を見つけることができなかった。彼女はそうこうするうちに両親のいうとおり他の人と結婚してしまい、僕はひどい痛手を受けた。僕は依然として彼女を愛している。それ以来、彼女より気立てがよく、気に入った女性はいなかった。だが、多分彼女は僕に与えられるものではなかったのだろう。”

(シューベルト、1815年暮:ライバッハの教職を希望するが失敗に終わる。)

~初恋とは、本心から愛する時だけのただ一度きりの恋であって、次の恋は前ほど自発的なもの
ではないのである~(ラ・ブリュエの言葉:フランスの小説家)         (続)

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