ソフィアさんちのチルちゃんと僕(78)~世阿弥と福澤諭吉(2-1)~
「さあ、これから『風姿花伝』のお話になるみたいだわ。」
「花伝?お能なのにお花の話なの?」
「お能で観客に感動を与えることを“花”に例えて伝えている本なのよ。
”時分の花”や“まことの花”、“萎れた花”まであるわよ。」
「ふうん、お花はきれいだから大好きだけれど、萎れた花は飾ることもできないよ。蝶々だって寄ってこないもの。
僕、萎れた花にはあまり興味が無いなあ。」
《「世阿弥と福澤諭吉」(2-1)
杉本知瑛子(H.9、文〈美・音楽)卒)
1、 著書『風姿花伝』では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。
“少年は美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は芸の花についての工夫(修行)から生まれる。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。~「世阿弥と福澤諭吉」(1)より~
さて、今回は前回に少しふれた『風姿花伝』について考察してみたい。
日本が世界に誇れる古典芸能の奥義を記したといわれる書物であるが、その内容は能楽のみでなく現代のあらゆる芸術、芸能、文芸等に役立つものと考えられる思想であり、現代の美学とも称することのできる内容である。
福澤先生の思想は「時事新報」の発刊、現代では「慶應義塾大学」“福澤研究センター”の活動と「交詢社」(現在の三田会活動に準ずる)活動と共に、『学問のススメ』『福翁自伝』等読みやすい一般向けの書物により、福澤先生の名と業績を全く知らないという日本人は皆無であろう。
しかし、世阿弥については能楽が世界に認められる文化遺産であるのにもかかわらず、世阿弥が記した多くの著作物の内容は一般に知られていない。もちろん能楽の流派の中で研究はされてはいるのであろうが、お能(謡や仕舞)を習った所で一般人には、先生(能楽師)の物まねをするだけで、何も教えられることはない。・・・自分で専門書を探して読むだけ?である。
なぜか?》
〔写真はWikipediaより〕