天川8)志ある天才教育の時代(2)・・・20号

「志ある天才教育の時代」(2)

           ~師弟関係の原点~

                         天川 貴之(H3、法

第三節 若者達の天才性を尊重し大いなる偉人を育ててゆけ

かの明治維新であったとしても、それを成し遂げた志士はわずかに三千人というではありませんか。たかが数千人の志士が集まっただけでも、世の中を変え、明治維新のような奇蹟的な偉業を、世界史的な偉業を成し遂げることが出来たのです。

しかも、そこで活躍したのは、二十代、三十代の若者であるのです。明治維新の頃に比べると、現代の方が学識は上でしょう。しかし、同じ年齢で計ってみれば、明治維新の時代に、二十代、三十代の方が出来たことが、それ以上の質と規模で、現代において、また、新時代において、平成維新を成し遂げることが出来ないことはないのであります。

そのような観点から考えた時に、まだまだ二十代、三十代の内に秘めている所の天才性に対する信頼が、今の時代は薄いのであります。二十を過ぎたならば、多くの方は、既に青春の業績を何か残すぐらいでないと本当のものではないのです。三十を過ぎたら、本格的な仕事の一つや二つをして、四十、五十は、明治維新の頃であれば、元勲の如く大成してゆく、そのようなシナリオでちょうどよいのであります。

実際に、吉田松陰も二十七歳にて松下村塾を開き、坂本龍馬も三十二歳で大政奉還を成し遂げ、その他数多くの若者達が、二十代、三十代の若さで偉業を成し遂げられたのであります。これは、一つには彼らが天才であるからでもありましょうが、それ以上に、その天才を育てた教育ということ、また、その天才を活躍せしめた社会的土壌ということ、また、その天才をして時代を駆け巡らせたその方の内なる志ということ、これに対しては、無限の探求をしなければならないのであります。

現代で言いますと、二十代でどんどんベンチャー企業を起こせばよいのです。アメリカでも、大企業になっているベンチャーは学生が起こしています。それを日本で起こせないはずがありません。そのベンチャー企業が大企業に発展してゆけば、そのような企業が数多く出てゆけば、失業者の数も減り、数多くの雇用が生まれます。社会の富も増えます。そうすれば、若者の力で、二十代の若者の力で国難が突破されたといえるのであります。

政治でも同じです。あれだけの薩長連合や大政奉還という国家の革命的事件を、平和裡に卒なく行い得たということは、三十代の若さがあれば、既にもう大人以上に、政治的手腕を、政治的行動力を持っているともいえるわけです。また、吉田松陰の二十七歳の時の松下村塾という志、また、その以前の孟子の講義、こうしたものをみても、当代一流の思想家であり、同時に、教育者であり、何よりも革命者であったといえます。

二十代の若さの方の人生が、後世の多くの方々の人生を変え得るのです。その事実を、多くの人々は忘却しておられるのです。二十代、三十代の若者が天下国家を論じ、天下国家に奔走し、天下国家で有為の人となって、業績を積んでいって当然なのであります。それを、私達の教育の根本にしてゆかなければいけません。

私達は、若い人に対する尊敬が余りにもまだ薄いのです。若い人を甘く見ているのです。若い人を尊重し、若い人を偉大なるものであると信じる所から、偉人が育ってゆくのではないでしょうか。

第四節 天才を数多く輩出する教育環境を整えてゆけ

そして、今の日本に必要な教育は、更に、天才教育ということでありましょう。余りにも画一的な教育がなされ、皆が悪平等のように扱われています。しかし、教育にも様々な教育があってよいのであり、そもそも、天才というものをよくよく考えてみると、一芸に秀でている方が多いのであり、その一芸に秀でていることを磨くことに専念するという、そのような天才教育も必要かもしれません。

また、その方独自の個性というものがあって、そのライフスタイルというものに合致しないとその芽が伸びないというものも数多くありますので、その方のライフスタイルを尊重する在り方もあってもよいかもしれません。

確かに、基礎的な教養は必要です。しかし、それだけでは天才が埋もれてしまう、また、その枠から外れてしまう傾向が多々あるのであります。そして、どちらに重きを置けばよいかというと、やはり天才教育に重きを置くべきです。天才が数多く生まれてゆくことを時代の風潮にしてゆくことが、真に国益に適います。また、世界の利益にも適います。

数多くの天才を待望し、数多くの天才が活躍し易いシステムにして、数多くの天才を支えてゆく社会システムをつくってゆくこと、教育をして何かを教え込むというのではなくて、その方の天才が自然に導き出されてゆくことを助けてあげるような、そういう親切な教育であってもよいかもしれません。

天才は、天才を大切にする国には数多く輩出し、また、その天才も、数多く開花します。天才を大切にする風潮をつくることは、今の教育の最高の課題であろうと思います。何故、海外に数多くのノーベル賞学者が出るのに、日本にはノーベル賞学者がほとんど出ないのか。これも考えてみなければなりません。これだけの高学歴の水準を保ち、これだけのスタッフを持ちながら、何故か、日本にはノーベル賞が少ないのであります。

これは、日本が、如何に本当の意味での学問的に価値のある研究というものをなす環境が整っていないか、そのことの現れであろうと思います。

本当の斬新な発想や、斬新な着想や、斬新な企画は、日本の社会の中では潰されてゆくことが多いようであります。これはどちらかというと、秀才型の、また、本当の意味での学者型の学者社会が出来ているのでありましょう。そうではなくて、天才型の学者、学者というよりは、天才である所のその発想力の秀でた若者、こうしたものを尊重してゆく、そういう学者社会になっていっていただきたいと思います。

更には、やはりアメリカなどと比べて、大学や大学院教育の評価が社会的な評価と一致しないということも、教育改革の一つではないかと思います。アメリカでは、実社会で腕を磨いた方が、また大学に帰ってきて、更にキャリアを積んで、また外に出ていって、また大学に帰っていくという、そのようなことで、社会と大学との相互作用があります。

社会によって学界が良くなり、学界によって社会が良くなってゆく。そして、産学共同体のように協力して一つのビジネスを動かしてゆく、そのような連結もあります。そのような産業界と学界の相互作用、並びに共同した事業展開、こうしたものの取り組みが、今後、更に教育の分野で必要になってくるのであろうと思うのです。

第五節 師弟間の全人格的教育こそ真なる教育の原点である

以上、様々に新しき時代の教育について、日本の抱えるテーマを述べてまいりました。その中で、やはり最も中心に言っておかなければならないということは、教育というものは、結局の所、心の糧を学ぶものであるということです。教育というものは、結局の所、人生を如何に生きるべきかということを学ぶべき所であるということであります。そのような深い人生論を、師と弟子が共に学んでゆくというこの姿勢は非常に大切であります。

共に啓発しながら、人生そのものを研鑚し合ってゆく。それが、師と弟子の有効な関係であります。弟子がある時は師となり、師がある時は弟子となり、共に同胞の師として、人生について深い魂の糧を得てゆく、共に成長してゆく、共に同志として志を論じてゆく、このような風景が本来の教育の原点であり、それはもはや遠い時代の話ではなくて、今、また蘇らせなければならない学びの風景であるわけです。塾の風景であるわけです。

今後、私塾も私学も数多く起こってゆく時代となってゆくでありましょうけれども、そのような私塾の人間の師弟の原点をよくよく発見し、そして、全人格的教育が、大いなる志の名の下に行われる時代になることを切に念願するものであります。以上です。

(天川貴之:JDR総合研究所代表:哲学者・思想家)

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(参考資料)

 「志ある天才教育の時代」(1)

                  ~師弟関係の原点~

                         天川 貴之(H3、法)             

第一節 青年はすべからく新時代への志と情熱に燃えて行動せよ

新時代に向けて再興されなければならない教育とは、志の教育そのものであります。志というものは、特に若者においては、それは命を賭けたすべてであり、自己の理想そのものであり、自己の本懐そのものであり、また、自己の愛すべきものすべてであるのであります。

そのような志というものを確かに若者の心に根付かせ得たならば、必ずやその若者は、その志を中心にして、志によって学びを深めてゆくのであります。志があるからこそ、万巻の書を読むことが出来るのであります。また、その読書も深く心読をしてゆくことが出来るのであります。また、その興味も尽きることなく、我が事のように思えるのであります。

しかし、志なくば、たとえ義務からそのような本を読んだ所で、その本は、あたかも味のせぬ菓子の如く、全く魂に響かないものとなるのであります。

志ある者は、その志そのものによって、限りなく熱い情熱に包まれているものであります。一度志を持たば、情熱の人とならぬこと能わず。一度情熱の人とならば、行動の人とならぬこと能わず。志があれば、情熱へと繋がり、情熱は、自然なる行動、実践へと繋がってゆくものであります。ここが、単なる学者と違う所であります。

単なる学者は、ただ受け身に学びてそれで終るだけでありましょう。しかし、真に志がある方は情熱によって学びます。情熱によって血肉化した知識は、自ずから行動へと繋がり、知行合一の精神を全うすることが出来るのであります。

若者にして志なきものは、その果実を見れば解かります。その果実において、全く青春の輝きとなる行動が無いのです。活動が無いのです。口でどんなことを言っていても、どんなに物知りでも、何を念い、何をやったのか、その行跡を見たならば、その方が本当に志ある方なのかどうなのかというのが解かるのであります。志ある者と無き者の行動力には、無限の差があるのであります。

学生でもよいのです。学生でも行動出来ることは数多くあります。若い社会人でもよいのです。若い社会人でも行動出来ることは数多くあります。その一つ一つをやってみればよいのです。

逢いたい人には逢い、また、知り合いになりたい方には手紙を送り、そして、教えを請いたい方には足を運ぶ。そのようなことは、当然なすべきことであります。また、国家の政に奔走してもよし、また、財界で活動してもよし、ベンチャー企業を起こしてもよし、何らかの活動をしないと、青春は無駄に過ぎてゆきます。

青春とは、これ行動にあり。青春の行動とは、これ志にあり。これは永遠の真理であると、青春の真理であると私は思うのであります。青年が青年らしくなること、若者が若者らしくなること、それが教育の原点であります。

若者や青年は、いつの時代においても、新時代の種子を宿しているのであります。新時代を直感しているのであります。現実に対して危機意識を持ち、そして、新時代に対して希望を持ち、そして、何らかのイノベーションをせんとして学び、そして、行動せんとして燃えている存在であるのです。

そのような若者や青年が数多くいれば、必ずや、日本は蘇ります。新しい新生日本というものが建設されてゆくことでありましょう。ですから、私は、若者に若者の原点に帰れと言いたい。青年に青年の原点に帰れと言いたい。そして、その原点にある志そのものを命とせよと言いたい。

「人はパンのみによって生くるものにあらず。志そのものによって生きるものである。大志そのものによって生きるものである。」と、このような信条を持って、青年期を、青春期を駆け抜けていっていただきたいのであります。

第二節  真なる教育は人の心に革命を起こし新天新地へと導くものである

また、そのような若者や青年を育てるためには、数多くの志を持った師が必要であります。師というものは、弟子を育てることに全人格的感化を及ぼす存在であります。本当の教育というものは、師と弟子との全人格的感化がなければ出来るものではありません。

師が心に感じていることは、自然に弟子に伝わります。弟子が心に感じていることは、自然に師に伝わります。このような以心伝心の関係がなければ、何ものも真に教育として伝えることは出来ないのです。言葉で幾万言幾千言語ろうとも、その心において伝達出来るものがなければ、その教育は無に等しいともいえるのであります。

うわべだけの教育で満足していてはいけません。内実ある深い教育にこそ着眼しなければいけません。深い所で真の目覚めを与えることが出来るものが本当の師であり、それは、悟りという言葉で言い換えられるものであってもよいのです。宗教的に言えば悟りであるし、また、それが閃きであったり、アイデアであったり、魂の輝きであったり、躍動であったり、そうした何かなのです。

何か精神的な言うに言えぬ不立文字の感動が伝わったならば、全魂が揺り動かせられるような感動が伝わったならば、全魂を駆け抜けてゆく衝動のような魂のエランを感じたならば、その教育は成功したものといえるのであります。

すなわち、教育というものは、人の心に革命を起こしてゆくことであると言ってもよいのであります。その方の命が革まらなければ、本当の教育は出来ないのです。その方の常識をすべて覆して、そこに新天新地を築けなければ、革命とは言えないのです。その人が今まで思っていた既成観念やそうした常識をすべて根底から覆して、その人に更に相応しい新天新地を呈示して見せ、実際に、それをその方が実感出来るように導いて差し上げること、それが、教育の原点であるのです。

そして、何よりも大切なものは、師の熱情であります。師の熱情がなければ、どのように学者のような形で学識を数多く詰め込んだとしても、その方の中には深く魂の糧として入らないのであります。熱情こそが言葉をして真に命を与えるものであり、言葉を言霊となすべきものであり、その熱情に満ちた言霊が活き活きと心の中で躍動して初めて、若者は、真の学問を知るのです。

学問を読めども、真の学問が解かったとはいえません。学問が解かるということは、その中に書いてある思想内容が活き活きとし、その中に書いてある言葉が言霊のように活き活きと感じられ、それが魂の躍動となって心を駆け抜け、悦びによって湧き上がることによって証されるのであります。このような小恍惚感を得られない学生は真に学生とはいえません。学生の本分を全うしているとはいえないのであります。

その中で、情熱が大きなフィルターの役目をすること、聖なる情熱が、透明なる情熱が、清らかな無私なる情熱が、その愛そのものの情熱が、暖かいものをその学生の中に湧き起こすのです。その学問の中に書いてあった公のために役に立つ内容を自ら実践しようと、若者を奮い立たせるのであります。

情熱とは、公に向かう無私なる愛であります。その情熱が、公に向かう無私なる愛が、その学問を通してその方の中に宿ったならば、その方は必ず、大きくなって、世の中のために、人々のために、真に働く者となろうと努力し続けられるのです。その努力する蓄積が、ある時、偉人となって現れるのであります。

この世界が、真に世の中のために人々のために生きよう、愛のために生きようと、公のために生きようと、公のために命を捧げるものは幸いなりと、そのような方々で満ちたならば、世の中は、見違える程の活気が出、エネルギーが出、そして、世の中は実際に変わってゆくのであります。           (続:第三節へ)

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