天川7)哲学随想:志ある天才教育の時代(1)・・・19号

 「志ある天才教育の時代」(1)

           ~師弟関係の原点~

                         天川 貴之(H3、法卒)

             

第一節 青年はすべからく新時代への志と情熱に燃えて行動せよ

新時代に向けて再興されなければならない教育とは、志の教育そのものであります。志というものは、特に若者においては、それは命を賭けたすべてであり、自己の理想そのものであり、自己の本懐そのものであり、また、自己の愛すべきものすべてであるのであります。

そのような志というものを確かに若者の心に根付かせ得たならば、必ずやその若者は、その志を中心にして、志によって学びを深めてゆくのであります。志があるからこそ、万巻の書を読むことが出来るのであります。また、その読書も深く心読をしてゆくことが出来るのであります。また、その興味も尽きることなく、我が事のように思えるのであります。

しかし、志なくば、たとえ義務からそのような本を読んだ所で、その本は、あたかも味のせぬ菓子の如く、全く魂に響かないものとなるのであります。

志ある者は、その志そのものによって、限りなく熱い情熱に包まれているものであります。一度志を持たば、情熱の人とならぬこと能わず。一度情熱の人とならば、行動の人とならぬこと能わず。志があれば、情熱へと繋がり、情熱は、自然なる行動、実践へと繋がってゆくものであります。ここが、単なる学者と違う所であります。

単なる学者は、ただ受け身に学びてそれで終るだけでありましょう。しかし、真に志がある方は情熱によって学びます。情熱によって血肉化した知識は、自ずから行動へと繋がり、知行合一の精神を全うすることが出来るのであります。

若者にして志なきものは、その果実を見れば解かります。その果実において、全く青春の輝きとなる行動が無いのです。活動が無いのです。口でどんなことを言っていても、どんなに物知りでも、何を念い、何をやったのか、その行跡を見たならば、その方が本当に志ある方なのかどうなのかというのが解かるのであります。志ある者と無き者の行動力には、無限の差があるのであります。

学生でもよいのです。学生でも行動出来ることは数多くあります。若い社会人でもよいのです。若い社会人でも行動出来ることは数多くあります。その一つ一つをやってみればよいのです。

逢いたい人には逢い、また、知り合いになりたい方には手紙を送り、そして、教えを請いたい方には足を運ぶ。そのようなことは、当然なすべきことであります。また、国家の政に奔走してもよし、また、財界で活動してもよし、ベンチャー企業を起こしてもよし、何らかの活動をしないと、青春は無駄に過ぎてゆきます。

青春とは、これ行動にあり。青春の行動とは、これ志にあり。これは永遠の真理であると、青春の真理であると私は思うのであります。青年が青年らしくなること、若者が若者らしくなること、それが教育の原点であります。

若者や青年は、いつの時代においても、新時代の種子を宿しているのであります。新時代を直感しているのであります。現実に対して危機意識を持ち、そして、新時代に対して希望を持ち、そして、何らかのイノベーションをせんとして学び、そして、行動せんとして燃えている存在であるのです。

そのような若者や青年が数多くいれば、必ずや、日本は蘇ります。新しい新生日本というものが建設されてゆくことでありましょう。ですから、私は、若者に若者の原点に帰れと言いたい。青年に青年の原点に帰れと言いたい。そして、その原点にある志そのものを命とせよと言いたい。

「人はパンのみによって生くるものにあらず。志そのものによって生きるものである。大志そのものによって生きるものである。」と、このような信条を持って、青年期を、青春期を駆け抜けていっていただきたいのであります。

第二節  真なる教育は人の心に革命を起こし新天新地へと導くものである

また、そのような若者や青年を育てるためには、数多くの志を持った師が必要であります。師というものは、弟子を育てることに全人格的感化を及ぼす存在であります。本当の教育というものは、師と弟子との全人格的感化がなければ出来るものではありません。

師が心に感じていることは、自然に弟子に伝わります。弟子が心に感じていることは、自然に師に伝わります。このような以心伝心の関係がなければ、何ものも真に教育として伝えることは出来ないのです。言葉で幾万言幾千言語ろうとも、その心において伝達出来るものがなければ、その教育は無に等しいともいえるのであります。

うわべだけの教育で満足していてはいけません。内実ある深い教育にこそ着眼しなければいけません。深い所で真の目覚めを与えることが出来るものが本当の師であり、それは、悟りという言葉で言い換えられるものであってもよいのです。宗教的に言えば悟りであるし、また、それが閃きであったり、アイデアであったり、魂の輝きであったり、躍動であったり、そうした何かなのです。

何か精神的な言うに言えぬ不立文字の感動が伝わったならば、全魂が揺り動かせられるような感動が伝わったならば、全魂を駆け抜けてゆく衝動のような魂のエランを感じたならば、その教育は成功したものといえるのであります。

すなわち、教育というものは、人の心に革命を起こしてゆくことであると言ってもよいのであります。その方の命が革まらなければ、本当の教育は出来ないのです。その方の常識をすべて覆して、そこに新天新地を築けなければ、革命とは言えないのです。その人が今まで思っていた既成観念やそうした常識をすべて根底から覆して、その人に更に相応しい新天新地を呈示して見せ、実際に、それをその方が実感出来るように導いて差し上げること、それが、教育の原点であるのです。

そして、何よりも大切なものは、師の熱情であります。師の熱情がなければ、どのように学者のような形で学識を数多く詰め込んだとしても、その方の中には深く魂の糧として入らないのであります。熱情こそが言葉をして真に命を与えるものであり、言葉を言霊となすべきものであり、その熱情に満ちた言霊が活き活きと心の中で躍動して初めて、若者は、真の学問を知るのです。

学問を読めども、真の学問が解かったとはいえません。学問が解かるということは、その中に書いてある思想内容が活き活きとし、その中に書いてある言葉が言霊のように活き活きと感じられ、それが魂の躍動となって心を駆け抜け、悦びによって湧き上がることによって証されるのであります。このような小恍惚感を得られない学生は真に学生とはいえません。学生の本分を全うしているとはいえないのであります。

その中で、情熱が大きなフィルターの役目をすること、聖なる情熱が、透明なる情熱が、清らかな無私なる情熱が、その愛そのものの情熱が、暖かいものをその学生の中に湧き起こすのです。その学問の中に書いてあった公のために役に立つ内容を自ら実践しようと、若者を奮い立たせるのであります。

情熱とは、公に向かう無私なる愛であります。その情熱が、公に向かう無私なる愛が、その学問を通してその方の中に宿ったならば、その方は必ず、大きくなって、世の中のために、人々のために、真に働く者となろうと努力し続けられるのです。その努力する蓄積が、ある時、偉人となって現れるのであります。

この世界が、真に世の中のために人々のために生きよう、愛のために生きようと、公のために生きようと、公のために命を捧げるものは幸いなりと、そのような方々で満ちたならば、世の中は、見違える程の活気が出、エネルギーが出、そして、世の中は実際に変わってゆくのであります。    (続)

(天川貴之:JDR総合研究所代表:哲学者・思想家)

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