天川貴之(33)~哲学随想3「美しい魂とロゴスの創造について」・・・44号

         【哲学随想3】:「美しい魂とロゴスの創造について」

 

                                      天川貴之(H3、法卒)

 

人間の感情の数だけ詩歌は存在するのであろうか。人間は、何故に繊細で多様な感情を有しているのであろうか。

確かに、言葉に出来ないものも数多くあるであろう。しかし、感情の多くは、言葉で表現することが出来るものであり、感情の多様性に適応するだけの言葉を、私達は有しているのである。

詩歌というものは、元来、通常ならば言葉に出来ないであろう感情を言葉に表現することによって生命を保ってきた。我々人間の感情の襞をたどってゆけば、そこから詩歌が生まれてゆくのである。

故に、豊かな感情を育むことは、豊かな詩歌を育むことにつながってゆくのである。しかし、そもそも、豊かな感情を育むということは一体どういうことなのだろうか。

我々の感情というものは、人生において、どういう位置に置かれるべきものなのであろうか。自らの感情を磨いてゆけば、人間は、本当に幸せになるのであろうか。それとも、自らの様々な感情を超克した方が、人間は、幸せな境地に到達出来るのであろうか。

例えば、「心の平静」という境地は、我々の感情の一場面として顕れるものなのであろうか。それとも、理性によって、そのような感情を統御することによって初めて顕われるものなのであろうか。ストア学派哲学も、エピクロス学派哲学も、心の平静という価値に到達した点においては一致するものがあったという。

そもそも、この心の平静というものは、一体、どのようにして得られるものなのであろうか。それは、穏やかな境地であろう。悩みと執われのない境地であろう。

涅槃寂静の「静」の境地が比較的近いのであろうか。或いは、老子の「虚を致すこと極なり、静を守ること督なり」という意味での「静」の境地が比較的近いのであろうが、このように、限りなく静かな境地を築いてゆけば、あらゆるものを、明鏡止水の如く映してゆくことが出来るのであろう。

「心の平静について」という論考がセネカの著作の中にあるが、この心の平静について考えるだけでも、一つの論文が出来ることであろう。

そもそも、豊かな感情といっても、そのことによって心に悩みが出来て、執われが出来るようならば、本当には豊かな感情とは言えないのであろうか。その逆に、何があっても心が揺れない静かな状態を創ってゆくことこそが、実は、真なる豊かな感情を育んでゆく道となるのかもしれない。

そして、このような平静心とは、一体どのような条件の下で生まれるのであろうか。心の波を平らかにして、凪いだ湖面のような状態にしてゆくことは、随時、可能なことであろう。また、それは、「老子」を十節程朗誦する習慣をつけても、このような平静心は得られるであろう。「無為を為し、無事を事とし、無味を味わう」ということも、それを実践していれば、心を安らかに全う出来ることであろう。一言で平静心といっても、様々な個性がその中にはあるように思われる。

例えば、エマソンの瞑想的随想の世界も、大いなる平静心の顕われと言われなくもないだろう。ルソーの「新エロイーズ」の感情世界も、それもまた、平静心の顕われと言われなくもないのではないだろうか。その繊細で穏やかな感情表現は、ショパンのピアノ曲を想わせるものがあるのである。私達がロマン的であると呼んでいるものも、本当は心の平静さの産物なのではないのだろうか。

美的世界が姿を顕わす時、そこには、平静でありながらも、同時に、豊かな感情表現がなされているのではないだろうか。このようにして、感情表現を美しくしてゆくことは、一つの感情世界を創造してゆくことでもあるのである。

美しさがどのようにして獲得出来るかということは、我々人間にとって、永遠の課題である。そもそも、美しさというものは、いかにして認識されるのであろうか。美しい感情というものは、美しい魂から生まれると同時に、また、美しい感情というものが、美しい魂を育むのであろう。

それでは、その美しい魂というものは、一体どのようにして育んでゆけばよいのであろうか。そもそも、美しい魂というものは、それは、美と芸術を育む魂のことではないだろうか。詩歌にしても、哲学であっても、それが何であれ、美しいものを創造してゆくということが、美しい魂の本質ではないだろうか。それはまた、或る時には、美と芸術を鑑賞し、追究してゆく魂のことではないだろうか。

美しい魂が美しい魂を発見するのであり、美しい魂は、美しい魂に感動し感化されるのである。そして、その美しい魂を証する美しい感情、美しい感性というものの本質とは一体何であろうか。それは美しい徳性と一致するものであろうか。或いは、それは、美しい理性を有しているということでもあろうか。

例えば、ルソーの魂にしても、ゲーテの魂にしても、美しい魂というものを探究しつづけたのではないだろうか。現象は様々に移り変りゆくが、しかしながら、美しい魂は、本来、そこに、永遠性を有しているのではないだろうか。

そもそも、ロゴスというものは、本来、永遠性を有しているものであり、移りゆく現象の中にあって、永遠の美しさを刻印し創造してゆくものである。また、我々人間の感情というものも、たとえ様々に移り変ってゆくとしても、このようなロゴスによって遺された感情は永遠であり、ロゴスによって感動し、揺り動かされる感情もまた、永遠性を持っていると言えよう。

このように、創造されつづける限り、ロゴスは不滅であり、そのような創造をしてゆくためには、美しさに感動する魂が要るのであり、美しさを追究する魂が要るのである。

このように、美しさをロゴスとして創造しつづけるのが、我々の魂の本性なのではないだろうか。美しい魂は、本来、不死であり、永遠である。美しい魂は、創造を通して美しさを実現し、美しさを体現するのである。

美しい魂というものは、本来、イデア性を帯びているのである。故に、「イデアの美」を発見し、創造してゆく力を有しているのである。美しい魂というものは、このような「イデアの美」を創造してゆくことによってイデアを取り戻し、本来のイデア性を獲得してゆく。本来の姿を想起し、本来の姿を再発見してゆくのである。

このように、美しい魂というものは、「真実在」の真理の一側面の輝きであり、本質であり、実在的叡智の結晶であるのである。

美しい魂というものの美しさは、その創造物が産み落とされた後にまで美しく輝きつづける。エマソンの随想であっても、ルソーの文学であっても、ゲーテの文学であっても、永遠の美しさを与えつづけているのであり、数多くの魂が本源的な美しさと芸術をその中から学びとり、感化を受けつづけるのである。

美しさを発見してゆくことは、万人の課題である。美しい魂となってゆく道は、万人に開かれているのである。故に、美しい感情を育み、美しいロゴスを創造し、また或る時は、美しい理性に磨きをかけてゆこうではないか。

美とは、我々の魂の内奥より無限に創造されてゆくものであるのである。

(JDR総合研究所・代表 天川貴之)

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