天川27 )新生日本建設の時代2)・・・・・・38号

    新生日本建設の時代(2)

     戦後見失ってきた三つの柱の再興

                        天川 貴之(91、法・法律卒)

第二節 理念の不在について

まず第一に、戦後日本の中で見失われてきたものの最たるものとして、「理念」を挙げたい。

しかし、これは、特に日本に限ったことではなくて、世界的な風潮であり、その本当の根源は、西洋精神の崩壊そのものにあると言えるのである。

戦後の日本は、こうした崩壊期にある西洋精神をより積極的に取り入れ、自国の土壌で発酵させてきた。その結果として理念の不在を招いたということが、主たる原因であると思う。

そこで、戦後七十年の日本の理念の不在の根源を検討するにあたって、西洋精神の崩壊過程について概観しておきたい。

かつて、イエス・キリストは、「人はパンのみによって生くるにあらず」と言われて、「神の言葉によって生きる」と宣言された。この神の言葉にあたるものを普遍的に言い表わすと、それが「理念」となる。それは、かつて、プラトンが「イデア」として把握されたものと同じである。

このキリスト教とギリシャ精神が西洋精神の極致であるとすれば、西洋とは、本来、普遍にして永遠なるものを前提とした文明であったと言える。

現代においては、西洋の没落ということが云われて久しい。しかし、その源を探ってゆけば、私は、それは、西洋文明の根幹を西洋文明が見失ってしまったことに根源的理由があると思う。

植物であっても年々成長し、その姿を変えてゆくが、その中にあって、永遠に変わることのない「実在」をその内に有しているからこそ、特定の植物としてのアイデンティティを保っていられるのである。

もしも、その植物が自らの「実在」を見失ってしまったとしたら、そこから、その植物は死が始まるであろう。それも、再生を期した死ではなくて、永遠なる死に向けての衰退が始まるのである。

西洋文明は、現代において、一つの死を迎えつつあるのである。この没落の背景にあるものは、枝葉末節の原因ではなくて、もっと根源的な原因なのである。それは学問の中にも宗教の中にも端的に現われている。

かつて、プラトンは、イデアに関する知を「真知」(エピステーメ)とされ、学問の源であるとされたが、今は、学問の世界から、「イデア」的なるものは実質的に締め出されてしまっている。

現代の学問的潮流の源にあるものは、ダーウィンの進化論とマルクスの経済学とフロイトの心理学であると云われているが、この三者に共通していることは一体何であろうか。それは、唯物論的思想であるということである。人間の本質を物質と観じ、世界や大自然の本質を物質と観じる思想であるということである。

例えば、ダーウィンの進化論にしても、現象的な進化の過程を物質的要因に基づいてのみ説明しようとするが、そこにおいては、「理念」が全く考慮されていない。

特定の植物を特定の植物たらしめ、特定の動物を特定の動物たらしめているものは、物質的遺伝子だけではなくて、その背後に、確固とした理念があるのである。それは、人間の脳と精神の関係と同じであって、理念が遺伝子を規定し、精神が脳を規定しているのである。

マルクスの経済学にしても、その果実たる共産圏は崩壊しつつあると言えるが、その根本原因は、その思想の内にある理念の不在にこそ求められるのであると私は思う。

マルクスは、ヘーゲル哲学の観念論的性格を批判して、自らの哲学、及び、経済学を樹立していったが、その態度の中に、そもそもの欠陥があったと言えるのである。

かつてのプラトンのイデア論が、近代においては、独自の認識論を通過して、理念論として顕われているのであって、これは、永遠普遍なる真理であり、西洋精神の近代を支える大いなる屋台骨であったのである。

ヘーゲル哲学の理念論が、いつの間にか唯物論にすり替わって各分野に応用され、社会的に実現されていったということは、全体的な歴史の流れから観れば、いわば、歴史的ガン細胞が発生し、拡がっていったことと同じである。

本来の理念の意志に反して、歴史は動き出して止まることをしなかったのである。その結果として、世界精神の意志の一つが自浄作用となって顕われているのが、戦後最大の事件の一つである共産圏のソ連崩壊なのである。

マックス=ウェーバーは、こうしたマルクスの経済思想が世の中に広まるのを見た経済学者の一人であったが、その著書の中には、その時代を生きる者の悲壮観がみなぎっている。それは、時代を深く深く直観されたが故の精神の危機感が吐露されているとも言えるものである。

「職業としての学問」の中で、マックス=ウェーバーは、「学問とは無意味なものになってしまった。」と宣言されている。それは、普遍的なる理念を失い、「いかに生きるべきか」をもはや答えるものではなくなっている。そして、その背後に、西洋の普遍的伝統精神を、唯物論やニーチェのニヒリズムなどが崩壊させてゆく様を鮮明に描かれているのである。

このことは、かつて、哲学の祖と云われるソクラテスが第一に教えんとされたことが、「いかに生きるべきか」という、人間にとって最も大切な問題であり、「よく生きること」であったということを考えてみれば、その対照的なことに驚く。まさに、驚異的に、学問は、近代において、この理念的生命を失って、屍の如くになっていったのである。

フロイトの心理学についても述べておくと、フロイトは、すべての文化の源は、肉体の性的衝動である「リビドー」によって決定づけられ、規定されているとされた。

精神的なる文化の営みを、物質的なるものによって説明しようとする点は、マルクスと同じような視点であると言える。

しかし、精神的なるものは精神的なるものの中からによってのみ生まれるものであって、決して、物質から派生するものではない。人間は、確かに本能によっても生きるものであるが、それ以上に、精神と理性に基づいて善く生きんとするものなのである。

故に、人類のすべての文化の源は、人間の内奥にある崇高なる精神の働きによるとして考えてゆく心理学こそが本来の心理学であると言えるのである。

戦後の日本の学問的潮流に大きな影響を与えた思想として、ダーウィン、マルクス、フロイトに続くものとしては、ニーチェの他に、ジェームス、デューイ等のプラグマティズムの思想もあるであろう。しかし、これも、理念不在であるという点において共通している。

かつてのプラトンやヘーゲルなどの学問についての定義こそが本来の学問のあり方であり、理念の意味というものを真に知れば、自ずから学問の体系も人間観も世界観も、理念を中心に置くものとなるはずなのである。

しかし、プラグマティズムにおいては、学問を実用の手段として考えるのみで、「理念を知る」という最高の目的を放棄してしまっている。これも本来の学問の位置を低下させた考え方であり、枝葉に執われ根本を見失った学問潮流を創り出してしまったと言えるであろう。

確かに、実用に貢献することは大切な視点の一つであるが、それのみを目的とするとなると、理念の不在の元凶となるのである。

以上、戦後日本の思想界に影響を与えた西洋思想における理念の不在を述べてきたが、今後、新生日本を建設してゆく上で大切なことは、近代以降、西洋精神が見失ってしまった理念的なるものを取り戻すということであり、新生日本の理念的思想潮流を創出してゆくことによって、崩れかかっている西洋文明を支えてゆくということである。

その時期に、深く深く精神の内奥を穿ち、普遍にして永遠なる理念を、泉より湧き出す清水のようにして新たに噴出せしめ、自国のみならず、全世界を潤してゆくことが大切になってくる。

新時代は確かに理念の再興を求めているのである。かつてのルネサンス以上の世界的大ルネサンスによって、理念が高らかに掲げられ、理念の太陽に照らされるが如き光明に満ち満ちた時代を求めているのである。

こうした時代の要請に応え、新時代に向けて、大きく日本の舵取りをしてゆかなければならない時期は、まさに「今」である。精神が生き生きと目覚め、新時代に躍動せんと欲しているのが実感されるのならば、それが新時代の潮流である。

理念を中心にした文化文明を創ってゆくことは、二十一世紀最大の人類の課題である。我々は、理念不毛の時代の波に抗して船出し、理念ある哲学、理念ある経済、理念ある政治、理念ある科学、理念ある教育、理念ある芸術、理念ある経営を取り戻してゆかなくてはならないし、より完成度高く、時代の総決算として実現してゆかなければならない。

これは、自己の内奥なる理念を取り戻した理念人間達が各分野を開拓してゆくことによってのみ可能な大事業である。理念人間による、理念を武器とした各分野の運命の開拓のことを、私は「理念の革命」と名付けたい。

この「理念の革命」こそ、新時代に向けての私達一人一人の聖なる決意でなくてはならないと言えるのであり、そこにのみ、現日本文明が生き延び、再生してゆく道があるのである。

(続く)

(天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.