天川12)新時代の芸術家に寄せて・・・23号

     「新時代の芸術家によせて」

                                               

                                      天川貴之(91、法・法律 卒)

大自然のありとしあらゆる存在は、すべて、天の芸術作品である。どのような偉大な人間の芸術的営為をもはるかに超越したものに我々は囲まれ、それを当然のことのように受け入れて生きている。

しかし、それらをよくよく芸術作品として観察してみると、たとえ一本の草木であったとしても、最高の彫刻であり、同時に、最高の絵画であり、そしてまた、その生成流転してゆく姿は、最高の文学でもある。

一粒の小さな種が大きく成長し、花を開き、果実をつくり、枯れてゆく過程は、一編の叙事詩、一編の交響曲のようにも思えるし、春から夏になり、秋から冬になり、一年の四季が巡りゆく様は、生命の持つ多様な個性ある美の可能性を我々に教えて下さる。

春には春にしかない独特の美しさがあり、春の雰囲気は、あたかも優しく暖かく悦びに溢れた音楽のように大自然に響き渡り、その音楽に合わせるかのように、草木や花々は、春の絵画をもって身を装い、悦びと希望に満ちた躍動を彫刻として表現している。

それは大自然の呈示した「春」という理念に従った一糸乱れぬ一大総合芸術でもある。一なる「春」という理念の下に、あらゆる生物がそれぞれの個性に応じて具体化しようとしているのである。

確かに、ありとしあらゆる生物は、大自然の春の声を聴き、一なる声の下に、己が生命を限りなく素直に成長させていかんとしているに違いない。

春の日には、冬の雰囲気をもった何物も存在せず、すべての生物が春を醸し出すための一助をなしている姿を見ていると、大自然はすべて一つにつながっており、全体としての大きな生命なのであるということが分かる。たとえ一本の草木であったとしても、そこに顕現している生命の息吹きは、大生命の息吹きそのものなのである。

地球という大生命は、我々には大きすぎてその全体像をつかむことが出来ない。しかし、多様なる生物の一つ一つは、地球の生命の顕れの一つであり、地球の創った一つの芸術作品なのである。

あらゆる芸術家は、その作品において己が精神を語ろうとするが、地球という大生命は、鉱物の中にも、己が精神の一部を託し、草木の中にも動物の中にも、そしてまた、人間の中にも己が精神を語らせているのである。

沈黙の内なる精神の調べがそこに流れている。それは秘められたる一冊の真理の書であり、また、美学の書でもある。

古今東西の教えが、よく大自然の一部を使ってたとえ話として語られるのは、その聖人が、大自然の中に無言なる教えを発見出来たからであり、また、それが可能であるということ自体が、大自然が、その内に無数の教えを内在させていることを示しているのである。

かの老子は、大自然の水の中に至上の徳を見出され、そこに、無我なる愛の姿、万物と調和する姿、限りなく謙虚な姿を看取されたのであり、同じような教えを数多くの聖人が水より学びとっておられるのである。これもまた、地球という大生命の崇高なる精神の一部が水となって顕われているものなのである。

水は、ある時は川となり、ある時は湖となり、また、ある時は海となり、様々に姿を変えながら我々を教え導こうとしているかに思える。我々は、川の流れの中に諸行無常の真理を見出し、川の粒子一粒一粒の中に諸法無我の真理を見出し、無執着の美徳を感じ取ることが出来る。

様々に悩んだ時に、自然と川の流れが見たくなり、川の流れを見ている内に心が安らいでいくように思えるのは、大自然が、川の流れの形をとって我々の精神を大いなる精神へと導いて下さっているからなのである。

また、湖の静寂な湖面は、地球の心の平静の美徳の顕われであり、海は、万象万物を育み包容する愛の顕われであり、我々は、湖や海の姿に触れながら、その精神に大きな変化を受けているのである。

偉大なる芸術作品には、すべて偉大なる精神の裏づけがあるものだが、同じく、大自然の川や湖や海などの大芸術の背後には、人間をはるかに超越しながら、なおかつ、人間達を暖かく育み、導かんとする偉大なる精神が存在するのである。

故に、真に偉大なる芸術を創造せんとする方は、大自然から、その形だけを学ぼうとするのではなく、形を形としてあらしめている所の奥なる精神をこそ学んでゆかなくてはならないのである。

また、大自然を一冊の美学の書として観ずれば、例えば、桜の花にしても、何故にあれ程に桜が多くの人々の芸術的感動を誘うのであるかということを考えてみると、それは、桜が一年中咲いているのではなくて、春の到来を告げ知らせる何週間かの間だけ咲いていることにあるのではないかと思える。

我々は、花が早く散ってしまうことを悲しく思い、時には自然の摂理を恨めしくも思うことがあるけれども、逆に、惜しまれて散ってゆく所にこそ花の美学があるのであり、また、久しく待望されて初めて咲く所にこそ花の美しさがあるのではないかと考えてゆくと、その妙なる演出に感嘆せざるを得ない。

かの世阿弥が、『花伝書』の中で、「秘すれば花」とその美学の奥義を示され、岡倉天心が、『茶の本』の中で、茶道の美学は「隠すことによって美を発見する」ものであると述べられているが、まさしく、大自然の叡智は、このような美学の奥義の源になったのではないかと思える程に、巧みな美の表現方法を心得ている。

他に、蝉の一生をとってみても、七年もの間、地中にあり、地上に出て一週間だけの生命を完成した美としてはばたかせることは、一見かわいそうにも思え、何故に、自然は、一週間だけ地中にいて、七年間大空を飛翔させてやらないのかと感ずることもあるが、よくよく大自然の御心を汲み取ってみると、地中にあった蝉の姿は、まさしく、「無用の用」の部分であって、この部分が存在することが、どれだけ蝉の一週間の生命の素晴らしさを浮き立たせているかということを考えた時に、蝉が忍耐に忍耐を重ねて飛翔してゆく姿は、限りなく崇高なる芸術を思わせるのである。

それは、あたかも、偉人や天才が忍耐に忍耐を重ねて、その晩年に偉大な創造物や業績を遺されることに似ていて、この大部分の目に見えない忍耐と努力の部分があればこそ、その偉人や天才の人生全体が、崇高なる徳の輝きと芸術的なる感動を伴っているということを象徴しているかのようである。

このように、大自然は、ある時は真理の書として、また、ある時は美学の書として、我々の前に、奥深い精神に裏づけられた芸術を、無限に、また、無償で展開して下さっているのである。

しかし、大自然が、いくら我々の前に崇高なる芸術を展開して下さっていたとしても、我々が大自然の心と同通する心を持たなければ、その芸術を芸術として観ずることは出来ない。

心の内なる自然が外なる自然を知るのであって、自らの心の内に芸術的なる理念の眼を育んでこそ、大自然は、我々の前に無限の理念の芸術を展開して下さるのである。それは、小さく見れば小さく響き、深く見れば深く響き、高く見れば見る程に高く響く、こだまのような存在である。

例えば、心の内に愛の眼を持ってみれば、大自然のありとしあらゆる営みが、いかに細やかでありながら、圧倒的に大きく、また、持続的でありながら、時、所、物に応じて様々に変化する天衣無縫の愛で彩られているかが分かるし、心の内に智慧の眼を持ってみれば、大自然のすべてが、いかに無尽蔵の智慧によって創造され、動かされているかということが分かる。

かつて、ルソーが『エミール』の冒頭で「万物を創る者の手を離れる時、すべてのものは善いものであるが、人間の手に移るとすべてが悪くなる。」と述べられたように、我々は、多かれ少なかれ、大自然の一部として、大自然を模倣して芸術を創造しようとするが、自らの心が大自然の心から離れて、大自然の崇高なる芸術を見失えば見失う程に、自らが創る芸術もまた、その輝きを失ってゆくのである。

だから、私はあえて現代に生きる芸術家の方々に、新時代の芸術は大自然に回帰する所から始まるのだと訴えたい。人為を空しくして、大自然の偉大なる芸術観に学び、大自然の崇高なる精神に芸術的叡智を汲み取る時、そこに天衣無縫の芸術が誕生してゆく。

そして、このような芸術作品こそが、大自然の心から離れてゆくことを美徳のように思い、迷子のようになって本当の美を見失っている数多くの現代人の心に、永遠なる大自然の生命の懐かしい旋律を憶い出させて下さるにちがいない。

大自然にあるものこそが永遠であり、大自然に汲むことのないあらゆる人為は無常ではかないものである。

新時代が求めている芸術家とは、自らの心の内に永遠の理念の光を輝かせ、その灯を以って大自然を照らし見、人為を遥かに超えた永遠の創造者と一体となって、自らが照らし見た無限の理念の美の一部を、新時代を彩る一つの自然の創造物と成して、多くの人々の心の糧と出来るような、大自然の生命を体現した芸術家なのである。

* 天川貴之:JDR総合研究所代表・哲学者

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