杉本2)定説への疑問(時事新報社説と古典音律)・・・(2号)

      定説への疑問! ~時事新報社説と古典音律~
                             杉本 知瑛子(H9,文・美学卒)

 前回1月の『福翁自伝』読書会で、奇妙な話を伺った。
『学問のすすめ』では、全ての人が学問をすることをすすめている。しかし後年、福澤先生執筆の時事新報論説ではその反対の意見を述べられているとのこと。

 *貧乏人が高等学問を身につけると社会不平等に不平をもつ。(官僚になれないから)
   →「教育限界論」を出す。(梅に桜は咲かない)
 *貧乏人を救うより国としては、富国強兵の方向に進めるほうが良い。
   (マルクスと同じことをいっているらしい)

そういう『学問のすすめ』とは間逆の話が、古川惣太郎さんの口から出たときは驚いた。
 福澤諭吉の理想論が現実論に変わったのは、戦時の故なのかお金持ちになってブルジョア的思考に変わったのかは分らないが、“不思議だ”との話だけで終わったが、これには納得できそうもない。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で始まる『学問のすすめ』の思想を、そんないとも簡単に変えてもらっては、これから福澤先生の思想を勉強してみようと、喜んで先生の書かれた自伝を読み始めた私としては、大変に困る。
研究者なら理由をご存知だろうが、私に分る筈がない。

 そこで、時事新報の論説とはどんなものか調べてみた。
 福澤諭吉の全集には、明治、大正、昭和に編纂されたものがあり、時事新報の論説は大正版より全集に入れられている。
論説は全て無記名で掲載されていたため、それを福澤自筆文と他者執筆文を仕分けたのは、石河幹明であるが、それらが福澤自筆の文章か否かではなく、時事新報論説の主張は福澤のものとみなすべきと、都倉武之(慶応義塾大学准教授)先生は“慶応、ウェブでしか読めない時事新報”で述べておられる。
その上で、それらの論説は「その日限りの使い捨ての主張」であるとも述べておられる。

 前号の会報で、私は音楽の古典音律のウェル・テンペラメントに少し触れた。
西洋音楽はギリシア時代からあり、音律も純正律、ピタゴラス音律、ミーン・トーン音律、ウェル・テンペラメント(古典音律の一種)、平均律(12等分平均律)、と時代によって変遷してきた。
前回少し触れたのは、日本では平均律(12等分平均律)とウェル・テンペラメントがごっちゃになり、ウェル・テンペラメントの存在が認識されずにきたということの話であった。

 現代の西洋では“平均律”という言葉の中に、日本で言う平均律(12等分平均律)とウェル・テンペラメントが存在する。(機械的に12等分された平均律と自然倍音の原理に従った古典音律=平均律)

 平均律にいくつもの種類が存在するのである。
しかるに、日本では最近まで12等分平均率しか認められなかった。ウェル・テンペラメントという言葉さえ存在しなかった。一時は幻の名著となった『ゼロ・ビートの再発見』の著者、平島達司先生は日本の音楽学界では、異端の徒でしかなかった。
日本の殆どの音楽学者は古代から多様な音律が存在することを知っていても、平均律に種類があるとは思いもよらないことであったのである。

(ヨーロッパでは古典音律の一種であるウェル・テンペラメントを平均律の一種として調律している) ウェル・テンペラメントを12等分平均律と同じものと間違えたのは、西洋と日本では少し様子が違う。

 西洋ではヴェルクマイスターとナイトハルト(平均律理論の研究者)が平均律を開発し、大バッハがヴェルクマイスターの平均律理論に基づいて『平均律ピアノ曲集』を書いたと信じられていた。
フーゴー・リーマンやヘルムホルツなどの有力な学者が、原典を参照せずに言った言葉が、後世に悪影響を残したのである。(多くの研究者が訂正を提案しても少しも崩れることのない虚構として存在し続けた)

*「バッハの『平均律ピアノ曲集』の原題は“Das Wohltemperierte Klavier”で、パリという人が
『平均律に調律されたクラヴィコード』と呼んでいるが、ドイツ語の平均律は別の言い方をするので、
文字通り『良い響きに調律されたピアノ』とすべきだ」とバーバーは彼の著書に記している。

 日本では、明治の初めにヨーロッパの音楽が入ってきた時、ヨーロッパの音楽の平均律化が完成した直後であったため、日本の音楽関係者は、平均律(12等分平均律)が唯一無二の音律であると思い込んでしまったのである。ただそれだけのことである。

 平均律(12等分平均律)と間違われた、全調移調可能な音律としてのヴェルクマイスター音律は、白鍵では5度(ドーソとかレーラなど)の幅が狭いために3度(ドーミやレーファなど)が純正に近く、黒鍵では純正5度になっているためピタゴラス音律に変わる。つまり、変化記号の少ない調では和声的な音楽であり、変化記号が増えるにしたがって旋律的な音楽に変わる、という特徴を持っている。

 バッハがヴェルクマイスターの音律で、いわゆる『平均律ピアノ曲集』を作曲した結果、ピタゴラスの三和音は、5度が純正であれば3度が不純でも、かえって緊張感の強い美しい響きを与えることがわかったのである。

 音律の問題は、ピアノを伴奏楽器として使う声楽家やピアニストにとっては、天地がひっくりかえるほどの大問題なのである。単なる前提条件ではあるが、平均律(12等分平均律)理論を絶対的な定説として信じて疑うことなく研究を続けていた、私の昔の長大な時間が惜しくてたまらない。

 慶応では、「常に“疑い”を持って考えよ」と言われていた。
 福澤先生の執筆とされている時事新報の論説も、先生自身が執筆されたものか、他人が執筆したものを先生の執筆とされているのか、正確なところは分らないようである。

 古川惣太郎さんの話では、時事新報の社説を読めば福澤先生の考えが書かれているので、先生の考えがよく理解できるとのことであったが、それら全てを先生の考えとすることには、無理があるのではないかとも思う。
又、都倉先生が仰るように、福澤擁護論と批判論の論争に対し時事新報の社説を、新聞であるが故の「その日限りの使い捨ての主張」もある、としてだけで切り捨てても良いものだろうか。
 
 福澤先生が晩年に書かれた『福翁自伝』の中に、先生の思想が読み取れる部分があるのではないかと、私は考えている。
「門閥制度は親の仇である」この文字はまず目に入ってくる文字であり、次に読む人の心に響き渡ってくるこの言葉は、幼少時代より晩年に至るまで、福澤諭吉の心の奥深くに存在し続けた想念だったことを、疑う余地はないと思う。

 『学問のすすめ』では、文字通り全ての人に学問をすることを薦めている。
その思想に対する疑念は、先生のその時々に書かれた著作と時事新報論説をよすがとして、日本や世界の政治、経済、文化などをも参考にして、これから先生の足跡を辿っていくことにより、今回、不思議に思った事柄の理由も少しは見えてくるのではないだろうかと考えている。                (終わり)

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