杉本19)世阿弥と福澤諭吉(4:最終回)・・・23号 

        「世阿弥と福澤諭吉」(4)

                  杉本知瑛子(97、文・美(音楽)卒)

前回は「能」における「物狂い」と、西洋のオペラにおける「狂乱の場」で演じられる「狂気」について述べてみたが、今回は能楽理論で最も重要と考えられている「花」について、「時の花」と「まことの花」そして「しおれた花の美しさ」について、それらの花を比べてみようと思う。

*時の花とまことの花 

問 ここに、どうしてもわからないことがある。それは、すでに年功を十分に積んだ名人に対して、最近売り出したばかりの若い役者が、競演で評判をさらうことがある。これは、どうしたことなのだろう。

 これこそ、「年来稽古」に述べた三十歳以前の若々しい肉体や、新鮮な演戯から生まれた時分の花の魅力である。年をとった演者がもはや外面的な美しさもなくなって、演戯も古くさく、観客に飽きられてきた時期に、若い役者の持っている、一時的な珍しさの魅力が勝つことがあるのであって、ほんとうに目のきく観客は見分けるであろう。そうなれば鑑賞眼が高いか低いかといった、いわば観客側の問題と考えるべきであろうか。~

しかしながら、五十以後にいたるまで芸の花を、失わないほどの演者には、どんな若さによる芸の花をもった演者でも勝つことはないであろう。

ただこの若い演者におくれをとるというのは、そうとうに上手な演者が、芸の花を失ってしまったために負けるのである。

~どんな名木といわれるような木であっても、花の咲いていないときの木を鑑賞する人がいるであろうか、見すぼらしい桜の、つまらない花であっても、他の花に先がけて、珍しげに咲いている方が眼にうつるに違いない。こうしたたとえを考えてみれば、それが若い演者の一時的な芸の花であっても、競演に勝つのは当然であろう。

以上のようなわけで能において、もっともたいせつなことは、舞台における花であるのに花がなくなってしまったことも覚らずに、昔の名声ばかりに頼っていることは、老齢の演者の大きな誤りである。たとえ、技術的には、数多くの曲を身につけたとしても、舞台における花をいかにして咲かせるかということを知らない演者を見るのは、花の咲いていないときの草木を集めて見ているようなもので面白くない。あらゆる草木において、花の美しさは、それぞれに異なっているけれども、面白いと感じる根本は、ひとえに花の魅力という点にあるのだ。 (『風姿花伝』「第三 問答」より)

世阿弥著『風姿花伝』の「第三 問答」は、実際の上演についての一問一答を記したものである。

上記は「時の花とまことの花」について、問と答えの一部分である。

世阿弥は「たとえ身につけた技術の幅はせまくとも、ある一方面において花を咲かせるということを身につけた演者であば、その一方面についての良い評判はそれなりにつづく」と言い、それを「時の花」(若さによる芸の花・一時的な珍しさ)と名づけている。

これに対し「芸における花のありかたをきわめた上手ならば、たとえ年をとって技術は衰えても花の魅力はいつまでも残るであろう。花さえ残っていれば、その人の舞台の魅力は一生涯あるはずだ」と言い、それを「真の花」(芸についての工夫、技術と研究を極めつくした演者に存在する花)と表現した。

では、「しおれた花の美しさ」とは?

問 つね日ごろ、批評用語として、花がしおれたような美しさ、ということがいわれる。

これはどんなことをいうのであろうか。

 これは、とても文字で書くことはできない。もし書いたとしても、しおれた花の美しさといった感覚的な風趣は現されないないであろう。しかし、たしかにしおれた風趣というものは存在する。

だがそれも、芸の花というものを身につけたうえで、にじみでる趣なのだ。よくよく考えてみると、こうした美しさは、芸術的な感覚によるものであるから、技術的な稽古や、形としての身振りで表現することはできない。その人が芸の花を身につけたうえで、自得することであろう。

(『風姿花伝』「第三 問答」より)

世阿弥は続けて述べる。「すべての演戯を通じての花というものを身につけていなくても、ある一面に置ける花をきわめた演者であれば、しおれた美しさを知ることもあるであろう。このしおれた美しさというのは、花よりもさらに一段階上の境地と考えられる。もともと花が咲いていなくては、しおれるということは無意味である。」

「美しい花がしおれた趣が面白いので、花も咲いていない草木がしおれたところで、なにが面白かろう。花をきわめることさえ一大事であるのに、しおれた風趣というのはその上とも考えられる感覚的な美であるから、なおなお大変なことなのだ。だから、譬(たと)えによって説明することもむずかしい。

『新古今集』秋の上にある藤原清輔の歌に

薄霧の籬(まがき)の花の朝じめり

         秋は夕と誰か言いけん

(朝の薄霧のなかに、垣根の花がしっとりと咲いている、秋の情緒は夕方にかぎると誰がいったのだろうか)

 

『古今集』恋の五にある小野小町の歌に、

色見えで移ろふものは世の中の

         人の心の花にぞありける

(それとはっきり様子に見えないで、いつの間にか色あせ、やがて散ってゆくものは世間の人々の心の花であるよ)

そして世阿弥は語りかける。「これらの歌から感じられる風趣が、しおれた美しさといわれる趣であろうか。それぞれの心の中で、考えて見るべきだ」と・・・

最後に、能における「花」とはどのようなもので、どのようにして把握すべきかが書かれている。

*「時分の花」「声の花」「幽玄の花」・・・年齢的な若さの新鮮な美、といった外面的な美しさ。

草木の花と同様に、やがてその時期になれば散ってしまう、いつまでも咲き続いていない花。

*「真の花」・・・高度な技術と深い人生体験をふまえた演者は、身につけた真の花が、どうして咲くのか、どうして散るのかといった花の理論を自覚しているから、名演技者としての名声はその人の心のままである。

だから、久しい年月にわたって、花を咲かし続けることが可能である。

「まず、七歳で稽古を始めてから、各年齢に応じた稽古のありかた、また役に扮する演戯の数々を、よくよく心の底において、そのひとつひとつを分別して覚え、多くの能の稽古をつくし、研究を極めて後に、この芸の花というものを、いつまでも失わない方法が会得できるであろう。

この多くの演目を身につけようとする意思が、すなわち、花を咲かせる種となるのだ。

芸術における花というのは、心の働きによって咲くものであり、種はあらゆる面にわたっての技術というべきである。」                                     (『風姿花伝』「第三 問答」より)

「~自分が、家を守り芸を重んずるあまり、亡父観阿弥の残しおいた教えを、心の底において、大要を記したものだ。

~能という芸術の衰退することを心配して書き残したものである。~

~ただ、能を継承する子孫への教訓として残しておくことに外ならない。風姿花伝の条々は以上で終わる~

従五位下左衛門大夫  泰 元清 書 」(『風姿花伝』「第三 問答」末文)

世阿弥は難しい芸術論を、それこそ子供にも分かりやすいように「花」にたとえて著している。

『風姿花伝』の成立は1,400年(最初の3つ)、“能という芸術の衰退することを心配して、能を継承する子孫への教訓として”書き記したものである。

福澤先生は明治初期にやはり、それこそ子供にも分かりやすいように平易な文体と明快な論理で新時代の指導原理を説いた啓蒙書『学問のススメ』を出版された。

大きく時代はかけ離れていても、また国家像と芸道という違いはあれどもそれぞれの未来を見つめる眼差しは同じものではなかったか。

*『風姿花伝』の「第七 別紙口伝」に記されてある下記の文章を追記する。

~能を極めつくしてみれば、花という特殊なものが別個に存在するわけではなく、能の奥義に達し、あらゆる場合に珍しさを生み出す道理を自覚し身につけることのほかに花というものはありえないのである。~

この「別紙口伝」は、~我が家の大事な教えであり、一代の中に一人しか相伝しないほど重要な秘伝である。たとえわが子であったとしても、それだけの才能のないものには伝えるべきではない。

「家といっても、血統や家柄ではない。芸道の正しい伝承がなされることが家なのである。

~芸道を知るということが真の後継者の資格であるのだ」という言葉がある。

この「別紙口伝」こそは、芸術家の理想とする妙なる花を獲得しうる教えであるはずである。 (完)

*(杉本知瑛子:元声楽家・杉本知瑛子ピアノ声楽研究所)

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〔参考資料〕

         「世阿弥と福澤諭吉」(1)

                          杉本 知瑛子(H.9、文(美・音楽)卒)

世阿弥(1363~1443)とは、日本の古典芸能に興味の無い人でも名前くらいは聞いたことがあるであろう、現代の日本人には難解な哲学のような古典芸能を父・観阿弥(1333~1384)と共に親子二代で大成させ、その芸術論を著し現代にまで伝えた能役者であり、美学者とも言える人物である。

能とは、「謡=謡曲」と「仕舞=能などでの演舞」に「囃子=笛、太鼓、鼓、など」が加わり、

演じる物語に相応しい役の能面をつけ、シテ(主役)、ワキ、ワキツレ、(地謡≒合唱)等が能舞台で演じるものであるが演者はすべて男性である。

(もちろん現代では女性能楽師も存在する。:1948、女性の能楽協会加盟が認められる。2004、日本能楽協会への女性の加盟が認められる。)

*「能」と「能楽」の区別は紛らわしいが、日本の重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されているのは「能楽」である。「能楽」とは、式三番(翁)を含む能と狂言を包含する総称である。

このような室町時代に生きた世阿弥と福澤先生を比較して、一体何を発見することができるであろうか?簡単に考えれば、両人とも戦乱の世(古い時代)から新しい時代に移行した時期に生まれた文明(文化)の開拓者であり、その目指す目的のために著書を多く残し、その著作・思想が現代にまで続いているということである。

福澤先生は中津藩下級武士の子として生まれ、世阿弥は大和猿楽(申楽)一座の座長・観阿弥の子として生まれた。

先生が「門閥制度は親の仇で御座る」と後年に著した『福翁自伝』で述べておられるように、「封建制度に束縛されて何も出来ず、空しく不平を呑んで世を去った父の苦しさ」を思った先生が選ばれたのは、学問の道であった。とはいっても学問らしきことを始められたのは14~5歳からである。

世阿弥は観阿弥の子として1363年に誕生した(幼名:鬼夜叉、藤若=二条良基より贈られた名、通称:三郎、実名:元清、法名:世阿弥陀仏)。その時父観阿弥吉次は31歳(数え歳)、この頃大和猿楽の有力な役者であった観阿弥は結城座(大和猿楽の一座=現在の観世流能)を創立する。

観阿弥が今熊野で催した猿楽能に12歳(数え歳)の世阿弥が出演した時、将軍足利義満の目にとまり、以後観阿弥・世阿弥親子は義満の庇護・寵愛を受けるようになる。

(1378年祇園会で、将軍義満の桟敷に世阿弥が近侍し、公家の批判をあびたようなこともあった)

1384年観阿弥(52歳:数え年)が没して、世阿弥は観世太夫を継ぐ。世阿弥22歳(数え歳)の時である。

ちなみに、足利尊氏が京都室町に幕府を置き政権を握ったのは1336年であり、世阿弥の父観阿弥の生きた時代は動乱の時代から足利将軍家による天下統一のころである(1392年、南北朝合一)。

足利幕府という政治的な事件と、能の結城座(現在の観世流)という芸術上の事件は、このような乱世の中から現れてきたのである。これらはその後具体的に結びつき、さらに実質上の最盛期を同じような時期に終わっている。能の大成は観世父子の2代によって成し遂げられたようなものだが、その半世紀は一つの政治的時代の熾烈な燃焼と重なり合っていたと言っても過言でない。

(注)

能楽:日本の伝統芸能。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。

江戸時代までは猿楽(申楽)と呼ばれていた。

1881(明治14)「能楽社」の設立を機に「能楽」と称されるようになった。

明治に入り、江戸幕府の式楽の担い手として保護されていた猿楽の役者達は失職し、猿楽という芸能は存続の危機を迎えた。岩倉具視をはじめとする政府要人や華族達は、資金を出し合い「能楽社」を設立し、芝公園に「芝能楽堂」を建設した。以後「猿楽」という言葉は「能楽」という言葉に置き換えられた。

西洋でも東洋でも中世の芸能者がいかに蔑まれ、社会的に低い地位につけられたかは広く知られている。日本でも古くから遊芸人は「七道の者」と一括され、正業を持たぬ乞食・非人と同様の扱いを受けていた。

~世阿弥が将軍義満の寵愛を受けるようになっても、当時の公家達の目には「此くの如き散楽(さるがく)の者は乞食の所行なり」(三条公忠著『後愚昧記』)と映っていた。~

そのような時代(室町時代初期)に世阿弥の父観阿弥は、農民層を相手に細々と興行していた猿楽を一躍表舞台の芸能に引き上げ、又いろいろな試みを通じて、その芸術性を飛躍的に高めたのである。

〔観阿弥による改革〕

*曲舞(くせまい)の節を取り入れて、大和音曲というものを生み出した。

(曲舞の節を取り入れることで、大和猿楽は幽玄さを備えるようになる)

*曲舞の節を採用するにとどまらず、能楽の中に「クセ」という部分を入れ、そこで新しい音曲による立舞を演ずるようにした。

これが、大和猿楽にいっそうの幽玄さを付け加えた。

*自分で新しい曲をいくつも作った。

(自然居士、卒塔婆小町、百萬、吉野静、等)

〔世阿弥の「夢幻能」とは違い、回想の中でフラッシュ・バックすることはない。〕

当時の貴族・武家社会には、幽玄を尊ぶ気風があった。

世阿弥は観客である彼等の好みに合わせ、言葉、所作、歌舞、物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」を大成させていった。一般に猿楽者の教養は低いものであったが、世阿弥は将軍や貴族の庇護を受け、教養を身に付けていた。(特に、摂政二条良基には連歌を習った。このことは後々世阿弥の書く能や芸能論に影響を与えている。)

義満の死後も世阿弥はさらに猿楽を深化させていく。『風姿花伝』『至花道』が著されたのはこの頃である。晩年は迫害を受け長男観世元雅は伊勢安濃津にて客死(1432年)、世阿弥も1434年佐渡国へ流刑となる。

著書『風姿花伝』(『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。

“少年は美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は芸の花についての工夫(修行)から生まれる。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。               (続)

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「世阿弥と福澤諭吉」(2)

                           杉本知瑛子(H.9、文〈美・音楽)卒)

著書『風姿花伝』(『花伝書』)では、観客に感動を与える力を「花」として表現している。

“少年は美しい声と姿を持つが、それは「時分の花」に過ぎない。能の奥義である「まことの花」は芸の花についての工夫(修行)から生まれる。「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」として『風姿花伝』の内容は長らく秘伝とされてきた。~「世阿弥と福澤諭吉」(1)より~

さて、今回は前回に少しふれた『風姿花伝』について考察してみたい。

日本が世界に誇れる古典芸能の奥義を記したといわれる書物であるが、その内容は能楽のみでなく現代のあらゆる芸術、芸能、文芸等に役立つものと考えられる思想であり、現代の美学とも称することのできる内容である。

福澤先生の思想は「時事新報」の発刊、現代では「慶應義塾大学」“福澤研究センター”の活動と「交詢社」(現在の三田会活動に準ずる)活動と共に、『学問のススメ』『福翁自伝』等読みやすい一般向けの書物により、福澤先生の名と業績を全く知らないという日本人は皆無であろう。

しかし、世阿弥については能楽が世界に認められる文化遺産であるのにもかかわらず、世阿弥が記した多くの著作物の内容は一般に知られていない。もちろん能楽の流派の中で研究はされてはいるのであろうが、お能(謡や仕舞)を習った所で一般人には、先生(能楽師)の物まねをするだけで、何も教えられることはない。・・・自分で専門書を探して読むだけ?である。

なぜか?

「秘すれば花なり。秘せずば花なるべからず」という流派内の秘伝とされている所以であろうかと考えられる。

現代においては、現代語訳にされた書物が公開され『日本の名著10』(中央公論社)にも収録されているが、ソクラテスやプラトンと同じく、名前くらいは知っているが内容は・・・、という人が殆どであろう。

『風姿花伝』とは、世阿弥が残した21種の伝書のうち最初の作品である。

亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法、心得、演技論、歴史、能の美学など世阿弥が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述になっている。

全7編あり、成立は15世紀のはじめ頃。(最初の3つが1400年、残りはその後20年くらいかけて執筆・改定)

日本最古の能楽論の書であり、日本最古の演劇論でもある。また日本の美学の古典ともいえる。

以下に内容を簡単にまとめてみた。

『風姿花伝』

:~能は由緒正しい芸能であるから~決して芸の伝統的な風格を無視して、邪道に陥れてはならない。

~日ごろの言動においても品格があって、姿も優美な人を、優れた演技者としての才能を備え、伝統を正しく継承している達人と言うべきではなかろうか。~

さて、この書に自分が若い頃より見聞した稽古の心得の大要を記すものである。

一、好色・博打・大酒。この三つは厳重な禁戒であり、先覚の定めた掟(おきて)である。

一、稽古に対しては徹底して厳しくなければならない。しかし、人間としては頑なであてはならない。

第一 年来稽古(各年齢に応じた稽古のありかた)

七歳

能の稽古はだいたい七歳ではじめる。~

子供の持っている長所がなにげなく表れるが、その良さを伸ばすためには、その子供のしたいままにやらせるのがよい。~こまかに教えるべきではない。あまりきびしく注意すれば、子供はやる気を失い、能に嫌気がさしてしまい、上達が止まる結果となる。

~また、晴れがましい舞台での最初の出し物を子供に演らせるべきではない。~

十二・三歳より

~順次さまざまな技術や曲数を重ねて教えるべきであろう。~

まず第一に、少年であるから、姿は優美であり、声も少年らしい美しい声の出る時期である。

~概して、子供の演ずる能には、大人びた手の込んだ物まね(役に扮する演技)などはさせるべきではない。しかし、よほど技術が秀でてきた場合は、その少年の演ずるままにまかせてもよいであろう。姿の可愛らしさと、声の美しさとが揃い、そのうえ、上手であるならば、少年の能は、どうして悪いはずがあるだろうか。しかしながら、この花(舞台上の魅力)は、修行を積み重ねた真実の花ではない。

ただ、この年ごろにのみ開きうる一時的な花にすぎない。~したがってこの時期の舞台の魅力は、それが役者としての生涯を決定しうる、評価の基準にはならないのである。

この年ごろの稽古は、少年の素質や美しさをのびのびと生かして、この時期の美しい花を咲かせる一方で、基本的な技術を大事に稽古しなければならない。~

十七・八歳より

この年ごろは、あまりに重大な時期なので、多くの稽古を望んでも無理である。

まず、変声期に入るので、十二・三歳のころにあった第一の花は失せてしまう。~この頃の稽古は、もし他人に嘲笑されるようなことがあっても、そんなことは気に掛けず、声の出しうる範囲の音程で、朝といわず夜といわず、たゆまず稽古し~強い信念を持って、能から離れないようにしている意外、稽古の方法はない。

二十四・五歳

この年ごろは、一生涯の基礎を固める最初の時期である。~変声期を過ぎて、本格的な発声をしうるようになり、体格も定まり、すっかり大人になる時期である。~若く美しい声と姿態がはっきりと身についてくる。若々しい感覚の能が生まれる時期である。~若い演者の新鮮な美しさが、名人と言われた人との競演にも、その名人を凌ぐほどの評判を得ることがあったりすると、世間の人は実力以上に評価し、また演者自身も、自分はかなりの上手だと思い始めたりするものだ。~ここで賞賛された芸は「まことの花」(優れた技術、豊かな見識を兼ね備えた人の芸によって咲かせる花)ではない。若々しい演者の声や姿態から発散する表面的な美しさであり、それを観客が珍しいと感ずる一時的な魅力にすぎない。~このころに咲かせる花こそ、初心の美しさと考えるべきなのに、本人は思いあがって能を極めつくしたように考え、早くも能の正しいありかたからはずれた勝手な理屈をこねまわし、名人気取りで異端な技をするのは、あさましいことだ。~つまり、「一時的な花」を「まことの花」と思い込む自惚れこそ、真実の花からなおさら遠ざかる原因となる。~演技者としての自分の芸力に対して客観性を持ちえたならば、ある時期に身につけた花は、生涯失せはしない。自分を見つめる力が無く、思いあがった考えで、自分の力量以上に上手な演者だと思ってしまうと、もともと持っていた芸力の魅力さえも失うことになる。~

三十四・五歳

~この年ごろの能は、一生の内の、もっとも華やかな絶頂である。~もし、この年ごろになって、あまり世間にも認められず、名声もそれほどでないとすれば、どんなに技術的に上手であっても、まだ、「まことの花」を極めていないと自覚すべきである。三十四・五歳までに、「まことの花」を身につけ得なかったことが、四十歳以後の芸の上にはっきり現れてくる。芸の下降は四十歳以後に始まるからである。~

四十四・五歳

~かならず優秀な後継者を一座の中に持つようにしなければならない。~この年ごろからは、身体を使ったあまりこまかな演技はしない方がよい。~技巧的な、身体を激しく動かすような演目はするべきではない。

五十歳以上

このころからは、おおかた何もしないという方針に則る以外術はなかろう。~しかしながら、本当に能の真髄を体得した、すぐれた能役者であるならば、過去において得意としてきた多くの演目の大部分が肉体的な条件などによって演じられなくなり、また、どんな役を演じた場合でも、観客をひきつけるような外面的な見せ場が少なくなっても、いぜんとして或る芸の魅力は残るであろう。

亡父(観阿弥)は、五十二歳の五月十九日に死去したが、その月の四日、駿河国浅間神社の神前において、能を奉納した。その日の彼の能は、特に華やかで、すべての観客は一様に褒め讃えた。~年相応に、やすやすと演じられる曲を内輪に控えた演戯で、しかも、演出には工夫をこらして演じたが、その芸の魅力はますますみごとに見えたのである。

これは、ほんとうに身につけた芸の魅力があったからで、その能は枝葉が少なくなった老木のように、表面的な派手な面はなくなっても、美しい花の魅力は残って咲き匂っていたのである。亡父のこの例こそ、実際に、老年に至るまで持ち続けた花の証拠である。

以上が、年齢の各段階における稽古のありかたである。(「第一 年来稽古」より抜粋)

第二 物学(各役に扮する演戯の方法)

物学(ものまね:役に扮する演戯)の種類は~

女~・老人~・直面(ひためん:面をかけない役・今の能では現実に生きている男性の役)~、物狂い~、

法師~、修羅~、神~、鬼~、唐事(異国人の役)~、について説明されている。

(注)物狂い・・・物狂いは、能の中で、もっとも面白さの限りをつくした芸能である。その中にさまざまな種類があるから、この物狂いを全般にわたって修得した演者は、あらゆる面を通じて、幅の広い演戯を身につけられるであろう。~(「第二 物学」より)

物狂いは能だけでなくオペラやリートでも重要な要素となっているので、詳細は次回に述べたい。

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 「世阿弥と福澤諭吉」(3)

                           杉本知瑛子(H9、文・美(音楽)卒)

前回は『風姿花伝』第一「年来稽古」(各年齢に応じた稽古のありかた)について述べたが、今回は、第二「物学」(役に扮する演戯の方法)から記述していきたい。

第二 物学(ものまね:役に扮する演戯)

~役に扮する演戯というものは、どんな役の場合でも、その対象を細部にわたってよく似せることが本来の目的である。しかし、一方においては対象によって程度の差が考えられるべきで、~

~品位の高い役柄とか詩的な対象については、いかにも綿密に似せるべきである。

田夫野人といった下賤の役に扮するときはよく似せることが物まね本来の目的であるとはいっても、その卑しい動作そのものを細部にわたって似せるべきではない。たとえば樵・草刈・炭焼きといった低い身分の役でも、自然の美と結びついた詩情を感じさせる一面をこそ、こまかに似せるべきであろうか。~

演じる対象によって似せるといってもそれぞれに違いがあるべきだ。

〔女〕:曲舞(くせまい:観阿弥がとりいれて現在の能のクセという部分に名残りを留めている中世の芸能のひとつ)

を舞う女性、白拍子(平安末期から鎌倉にかけて流行した、男装の美女が舞った芸能、静御前・祇王などが

代表人物)、または物に狂った女性(物狂いも一種の歌舞芸能者)の役については、扇とか、花の枝

といった持ち物を、いかにもしとやかに、手に力が入り過ぎないように持って演ずるのがよ

い。~顔の角度が上を向きすぎると、面の容貌が見苦しく見えるし、またうつむくと、後ろ

姿が悪い。そして首に力を入れすぎると、いかつい感じがして女らしくなくなる。~

〔老人〕:老人の役は、能の中で、至難至高のわざである。

~老人の演戯には、花がなければ、面白いところはない。~老人の立居振舞は、老年であるからといって、ただ写実的に腰や膝をかがめて、身体を折り曲げ、よぼよぼした感じを現したりしたのでは、花がなくなって、古くさい演戯になってしまう。~

老人の演戯というものは、全体をつうじて、ひとつひとつの動作を大事にして、しとやかに演じるべきである。ことに老人の役で、しかも舞を舞う、といった趣向(『老松』『西行桜』など)は、ことのほかむずかしいものである。

美しい魅力があり、しかも、老人に見えるといった、相反する二つの要素を同時に持つ工夫を、くわしく習得しなければならない。それは、たとえてみれば老木に美しい花がさいたように演じることである。

〔物狂い〕:物狂いは、能の中で、もっとも面白さの限りをつくした芸能である。その中にさまざまな種類があるから、この物狂いを全般にわたって修得した演者は、あらゆる面を通じて、幅の広い演戯を身につけられるであろう。

(1):概して、何ものかに憑かれた役、神・仏・生きた人間の霊魂・死人の霊魂などが憑いた物狂いは、その乗り移ったものの本体を把握して演戯するように工夫すればよい。

(2):親に別れたり、子どもと別れて訪ね歩いたり、夫に捨てられたり、妻に死なれたりすることによって狂乱する物狂いは、容易ではない。

このような物思いによる物狂いの曲は、相手のことを一途に思うといった戯曲の主題を、役作りの基本に置くべきである。

そうした突き詰められた感情が、自然の風物によって触発され、一種の興奮状態になって種々の芸能をする。そのように狂うところを観せ場にして、心を込めて狂う演戯をすれば、必ず曲の主題からくる感動と見た目の面白さが一体となって舞台に表現されるであろう。

こうした曲づくりによって観客に強い訴えかけを与えたとすれば、それはこのうえない優れた演者だと考えてよい。~物狂いの扮装については、その役に似合ったようにすることは、いうまでもない。しかし、常の人と異なった精神状態の物狂いであるという意味で、時によっては、実際よりも派手な扮装にすべきである。また、その曲に合った季節の花の枝を持って舞ったり、飾りとして挿したりするのもよいであろう。

(3):直面(ひためん:面をかけない役、今の能では現実に生きている男性の役で、年齢その他の制約を受けないもの)で演じる物狂いの役は、能を知りつくした演者でなければ、十分に演じることは不可能である。なぜならば、物狂いを演じるためには、現実の逃避が必要であるから、ふつうの顔つきのままでは、物狂いにならない。~したがって直面の物狂いは、もっとも難しい物まねわざといえるであろう。~

直面であることのむずかしさと物狂いのむずかしさ、この異なった二つの課題を一度に消化して、しかもそのうえに面白い花を咲かせるということは、どんなに大変なことであろうか。よくよく稽古を積むべきである。

(「世阿弥著『風姿花伝』訳:観世寿夫、」より)

以上、“物学”について、私が個人的に興味のある役のみ少し詳しく取り上げてみた。

話は少し西欧へとそれるが、能楽と同じように舞台芸術としてのオペラには“狂乱の場”(mad scene)と称される至難の大曲を含む作品が存在する。

現代に残る「狂乱の場」を含むオペラは19世紀前半にイタリアで流行したものであり、当時の人々は厳しい現実の中で、現実でないもの、ロマンティックなもの、幻想的なものに強く惹かれ、それを劇場(オペラ)に求めたのである。

ドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』は、スコットランドを舞台としたウォルター・スコットの歴史小説をもとに、政略結婚やかなわぬ恋が描かれた作品である。

ルチアは悲しみと絶望の余り婚礼の夜新郎アルトゥーロを刺し殺し発狂して、最後には死んでしまうのであるが、『~ルチア』はその時代の流行の頂点の作品であり、現代まで残った数少ないコロラトゥーラソプラノの名曲(mad scene)を持つオペラでもある。

(注)

*Gaetano Donizetti(1797~1848) :『Lucia di Lammermoor』第3幕第2場「mad scene」 ~Il dolce suono~

(ドニゼッティ:『ランメルモールのルチア』第3幕第2場「狂乱の場」 ~やさしい声が聞こえる~ )

*世阿弥(1363~1444):1400年4月13日『風姿花伝』(「第三 問答条々」まで成る。あわせて、申楽伝説を『風姿花伝』の一部(「神儀」)としてまとめる。

*コロラトゥーラ(coloratura):オペラや歌曲において、早いフレーズの中に装飾を施し華やかにしている音節のこと。

これが使われている曲の中で特に有名なものとしては、モーツァルト歌劇魔笛』における第2幕の夜の女王(ソプラノ)によるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」がある。ロッシーニの歌劇『セビリアの理髪師』第1幕第2場でロジーナ(メゾ・ソプラノ)が歌う「今の歌声は (Una voce poco fa) 」も有名。

19世紀前半になってイタリアで流行した、このような「狂乱の場」のように、現実でないもの、ロマンティックなもの、幻想的なものが、日本では能楽(申楽)の重要な部分をしめる「幽玄美」(夢幻能的全体演劇)として14・5世紀には、世阿弥により完成していたのである。

能楽では、「老人」や「直面で演じる物狂い」の役は、「能を知りつくした演者でなければ、十分に演じることは不可能である」と世阿弥は言っている。また「相手のことを一途に思うといったような、物思いによる物狂いの曲」は、「そういった戯曲の主題を、役作りの基本に置くべきである」とも言っている。このような突き詰められた感情が、物狂いとして錯乱や狂気を生じさせ、オペラではそれ自体狂気をも感じさせるような技巧の限りを尽くした、コロラトゥーラの出番となるのである。

『風姿花伝』には「物狂い」について具体的な言及はあまりなかった。

「よくよく稽古を積むべきである」

そこには時代を問わず洋の東西を問わず、私の一番苦手な言葉が出てきている。

ごく短いこの言葉には千金の重みがある。しかしそれだけでは表現できない“狂気”を、今回私は「ギリシア哲学」の中に見つけることができたのである。

“人は、誰かを愛している時、エロスという神霊、ダイモンの神懸り状態にあるといってもよいでしょう。

非常に霊的に覚醒した状態になるのであります。

これは、神懸りであるが故に、「神的狂気」と呼ばれるものであります。狂気そのものは、正気より劣っているといえますけれども、神的狂気は、正気よりも素晴らしいということがいえます。

このエロスの神的狂気によって、日常性の正気を離れ、限りなく神秘的な美そのものを追い求め、また、自らも体現することが出来るのであります。”           (諭吉倶楽部会報第21号掲載:天川貴之「哲学的愛」より)

「よくよく稽古を積むべきである」→技巧の習得→役作り→「神的狂気による神秘的な美の体現」

これを世阿弥は「よくよく稽古を積むべきである」との一言で伝えていたのである。

次回は能楽理論で重要な「時の花」と「まことの花」そして「しおれた花の美しさ」について

述べてみたいと考えている。

~冒頭(4)へ続く~

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