塩野5)腸チフスに罹患した福澤諭吉を救った人たち・・・(35号)

「アーカイブ」より:腸チフスに罹患した福沢諭吉を救った人たち

 塩 野 秀 作(‘76 商学部卒業)                                                                                                                (大阪慶應倶楽部副会長)

新型コロナウイルス感染拡大が続く中ですが、過去にも、多くの感染症が、日本や世界で流行した。人類が撲滅に成功した最初の感染症は、天然痘です。日本で最後の天然痘の患者発生は、昭和49年(1974)、世界では昭和52年(1977)で、WHO(世界保健機構)は、昭和55年(1980)に天然痘根絶宣言を行った。

天然痘が、撲滅できた理由は、①天然痘は不顕性感染が少ない。天然痘に感染すると皮疹のように明らかな症状が出るので知らないうちに他人に感染させることがない。②天然痘ウイルスは人以外に感染しない。③良く効くワクチンが存在する。3条件を満たすポリオ(小児麻痺)や麻疹(はしか)は撲滅可能な感染症です。

ポリオ(小児麻痺)は、日本では撲滅されましたが、世界では、パキスタン、アフガニスタン、ナイジェリアの3か国がポリオ常在国です。麻疹(はしか)は、日本では撲滅されましたが、世界では2017年11万人が麻疹で死亡しました。今でも外国から麻疹ウイルスが入ってくる可能性があります。ワクチン接種していない人は容易に感染します。世界や日本でも根気強くワクチン接種を広げていくことにより、根絶させることは可能です。世界では、アフガニスタン、シリア、イラク(クルド)、リビア、イエメンなど内戦状態にある国がまだ多くあります。戦争や内戦状態にある国は、196か国中45か国もあるようです。このような状態では、ワクチン接種も簡単には継続できません。

事実、国際ロータリーは、世界でのポリオ撲滅を掲げ、ワクチン接種活動に毎年1.5~2億ドルの寄付を集めて、地球上のすべての子供にワクチン接種を進めていますが、アフガニスタンでワクチン接種活動の複数の関係者が犠牲になっている。

日本では、天然痘が江戸時代末期に広がり、嘉永2年(1849)11月7日、40歳の緒方洪庵(写真1)らは天然痘(疱瘡)禍から人々を救うべく京都から牛痘苗(ワクチン)を導入し、牛痘種痘法普及の拠点として除痘館を大坂の古手町に創設した。しかし、天然痘(疱瘡)にならないようにするために牛痘苗(ワクチン)を種痘するという考え方が一般的には定着していなかったため、除痘館を創設したものの種痘を受けに来る人がいない状態で困っていたようだ。そこで緒方洪庵の働き掛けで、翌月12月に薬種問屋の35歳の2代目塩野屋吉兵衛が、極めて早い段階で牛痘種痘法に理解を示し、5歳の子息(3代目塩野屋吉兵衛:

写真2)に種痘を受けさせた。(財団法人洪庵記念会 除痘館記念資料室発行)(写真3)その証明書は、現存する「疱瘡済証」(写真4)としては、最古のものであり、現在、その複製されたものが財団法人洪庵記念会の除痘館記念資料室で展示されている。除痘館開設後1ケ月で、道修町の薬種商であった2代目塩野屋吉兵衛がいち早く牛痘種痘法に理解を示して子息に種痘を受けさせたことは、その後の種痘を受ける者が継続したことに大きな意義があったと思われる。

安政3年(1857)春、24歳の福沢諭吉は、腸チフスに罹患し重篤になった適塾(写真5)の同窓で2年先輩の岸直輔に献身的な看病を行ったが、岸はむなしく亡くなった。その後、岸の看病で感染し腸チフスになった福沢諭吉が、重篤な状態になった。緒方洪庵は、優秀な福沢諭吉をことのほか可愛がり親子のようであった。緒方洪庵は医者であるが、患者と親子のような関係だと薬の処方に迷ってしまうので、薬の選択と調合は、朋友の医者の内藤数馬に頼んだと福翁自伝で記されている。

医者の内藤数馬の子孫である内藤家は、塩野家の借家に住み、現在の塩野日生ビルの1階に内藤外科整形外科(写真6)を構えた。その後、内藤医師は隠居され、現在の院長中原治彦氏が医院を引き継いだ。なぜ、名前を変えないのかと質問すると、「内藤」は大阪の医療界では名門なので、そのまま名前を了解のもと使わせてもらっているとのことであった。

「先生の朋友、梶木町の内藤数馬という医者に執匙を託し、内藤の家から薬を貰って、先生は只毎日来て容体を診て病中の摂生法を指図するだけであった。」(福澤諭吉 福翁自伝 福澤全集緒言P.52 慶応義塾大学出版会)福沢諭吉が腸チフスに罹患した時には、緒方洪庵は、友人の医者の内藤数馬に執匙(匙を執って薬の調合をすること)を頼んだ。当時、腸チフスに罹患すると高い確率で死亡していた。良い薬の提供と手厚い看護がなかったなら、福沢諭吉は生存していなかった可能性は高い。

親子のように可愛がる48歳の緒方洪庵と朋友の医者内藤数馬、そして薬を提供した可能性の高い43歳の2代目塩野屋吉兵衛との協力体制があったからこそ24歳の福沢諭吉が助かったのではないか。このことを私の知る限り今まで誰も述べたことがないと思う。緒方洪庵と2代目塩野屋吉兵衛に親交があったこと。塩野日生ビルの内藤外科整形外科の内藤元院長の御先祖が内藤数馬で内藤家は塩野家の借家人(内藤数馬は梶木町、現在の北浜3丁目在住で塩野家は多くの借家を所有していた)であったこと。そして私が、福沢研究センター講座を聴き、福翁自伝の関係個所を関心持って読んだ結果、2代目塩野屋吉兵衛が緒方洪庵の朋友である医者内藤数馬に様々な薬を提供して、薬の調合されたものを福沢諭吉が服用していた可能性が極めて高いと思われる。確たる証拠は現在見出せないが、2代目塩野屋吉兵衛、緒方洪庵と内藤数馬の関係性(写真7)から類推して、2代目塩野屋吉兵衛と福沢諭吉先生(写真8)の間に少しつながりを見出せたことは大変嬉しいことである。

写真1 緒方洪庵               写真2 3代目塩野吉兵衛

 

写真3 財団法人洪庵記念会 除痘館記念資料室発行            写真4 痘瘡済証

3代目塩野屋吉兵衛の最古の「疱瘡済証」の説明資料

 

写真5  適塾(緒方洪庵)                写真6  内藤外科整形外科医院

写真7北船場文化三年版古地図 適塾、塩野屋吉兵衛商店近い

写真8 福沢諭吉先生

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