奥村10)私の好きな諭吉の文章(9)・・・31号

                                           「私の好きな諭吉の文章」(9) 

                                                                                  奥村一彦(80年経済卒)

1 『痩我慢の説』をめぐり、多くの研究書や関連書とともに、諭吉の書いた『痩我慢の説』前後の論文も読むことになり、改めて気づいたことがたくさんあります。この『痩我慢の説』は、石川幹明の前文によれば1891(明治24)年の冬に執筆されていますが、この前後国内は大動乱が続いています。

1889年2月11日大日本帝国憲法の発布、同日の衆議院選挙法公布、1890年貴族院議員の互選・勅撰、衆議院議員選挙、同年11月第1回帝国議会の開会、2回の議会を経て1891年12月25日、早くも解散、1892年5月第3回議会から1893年12月30日の第2回目の解散まで5回の議会が開かれ、その翌年1894年5月に第6回議会が開催されたものの1ヶ月で解散し(3回目)、その直後7月25日に日清戦争が闘われるという、慌ただしい政治的変動が続きました。

社会的事件も次々と発生し、1890年、群馬県の足尾銅山で農産物被害が顕著になり社会不安が発生しています。1891年5月11日大津事件(後のニコライ2世が滋賀県大津で巡査に切りつけられる)、第2回議会直前の1891年10月28日には濃尾地震が発生し、死者7000人を越え、未曾有の社会問題が起こっています。

そうしてみると『痩我慢の説』は、初めての国会が開かれはしたけれど、政府と民党が議論そっちのけで、激突する事態で、また、濃尾地震が発生した直後の社会的救援が高度に必要とされているのにもかかわらずそれすらも議論がなされない異常な状況の中で書かれたということがわかります。

そのような社会的背景を勘案すれば、同時期、諭吉が大変な危機感を抱いて矢継ぎ早に書いた一連の時事新報紙上の論文『国会の前途』(1890年12月)、『国会難局の由来』(1892年1月)、『治安小言』(同年2月)、『小康策』(同年5月)そして『維新以来政界の大勢』(1894年3月)が、いかにこの時期の日本社会の直面していた問題(明治政府の崩壊あるいは社会の分裂から内乱の危機)を乗り切ろうと必死になって書いたのかが理解できるようになります。

2 これらがひときわ危機感を持って書かれたことは間違いありません。衆議院に集まった議員は「凡そ政府より提出したる議案とあれば、利害得失のわかりきったる事柄にても、殆ど全会一致の勢いにて之に反対する」、「実に困り果てたる帝国議会にして」、その原因はどこにあるかと尋ねれば政府にあり、「政府が国会の開設を約束してより以来、九箇年の其間に、官民調和の注意を忘れて、正しく其反対の方針に向ふたる不養生に在りと云わざるを得ず」(『国会難局の由来』)という諭吉の診断です。今すぐ手当を施さなければ「武断政治の出現」を来すやもしれないというおよそ立憲政体とは無縁の非常事態に陥る危機意識を表明します。

政府内には政府内の問題があり「政権の帰する所、一なるを得ず」という「専制の如く、合議の如く、又諸強藩士の寄り合いの如」き状態で、「薩長の軋轢を」修復に気を取られるなど情実政治に追われ、単一の政権が構成できないその上に、諭吉が怒ってやまない「新華族」なる一群の維新の功労への報酬のぶんどり合戦(巨額の恩賜金がばらまかれた)を演じる痴態が、民党連中はもちろん、一般人民から見ても羨望と反発を招き、国を分裂させる原因となっているだけでなく、華族は衆議院に立候補できない制度にしたから、維新後下野した有能な人物が衆議院に出られず、衆議院には「文明の教育」が行き届いていない輩が大半を占めるという誠に醜態なる議会となったと酷評します。維新の功臣らは直ちに位記、爵位を返上すべきであると訴えます(『治安小言』)。その提言は後に実現し、伊藤博文が爵位を返上して自ら立憲政友会を組織し(1900年)、ここに政党政治がはじまります。諭吉の提言はムダではなかったのです。「官民調和」という諭吉の提言もこのあたりの政治的危機情勢を加味して考えると誠に理にかなった実践的に意義のあるものではなかったかと考え直します。

3 このような危機的社会背景を考えると榎本武揚が、1886年従二位の位記、1887年子爵を授爵し、勝海舟が1887年伯爵を授爵し、1888年には正三位の位を得るなど、元幕府の軍事的重職を担って部下をさんざん死に至らしめた過去を持つ者が、敵方であった朝廷に食い込んで重要なる地位を得たばかりでなく、目下人民と政府を分裂させる原因となっている位記・爵位まで得るということは、福澤にとっては、これくらい旧を裏切る態度はないと怒り心頭に達したのでしょう。このような功名心と利得で生きる輩は、とても国の独立のための働きなど任せられない、またいつでも裏切って敵方につくような、士人の風上におけない人物であると考えたと思います。

4 「立国は私なり、公にはあらず」は、立国未だ生らずの危機意識の中で書かれた、いわば血の滲むような激白の文章であり、また、榎本と勝を批判するだけでなく、立国の困難さ、立国意識の生成の困難さも内包した文章だった思います。

図らずも日清戦争がこの直後1894年7月勃発し、官民が一体となり、条約改正も実現しそうな様子を見せ、ようやく目指す「立国」の完成が近いことを予想させ、福翁自伝の中の諭吉の喜びようがやや異常なまでに映るその背景がなんとか理解できたような気がします。

憲法による政治の導入を巡り、憲法を制定した政府自身がそれを受け入れることができず、民党との対立と権力内の不統一から、権力そのものが崩壊するところまで追い詰められていたその危機の中で、福澤は「官民調和」というキャッチフレーズで分裂を回避しようとしたのでしょう。「官民調和」という政治的用語は、明治14年の政変直後から使われてはいますが、使い始めた当初と第1回帝国議会開催後では、役割は大きく変わり、当初の在野の民権家と藩閥政府とのいわば時間を掛けた融合を促進する働きから、『国会難局の由来』以後は、権力の内部分裂及び権力と衆議院勢力との分裂、内乱のおそれという未曾有の危機において、双方が強く行動を自制すべきという権利制限(自重)と討論による解決を目指す議会中心主義への転換を促す役割を担ったと言えるでしょう。

その危機を乗り越える機会が外国との闘いであったことは歴史の偶然ともいうべきでしょうが、ともかくも明治20年代の後半、政府崩壊、内乱の危機は免れたという歴史を理解したいと思います。

(奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所)

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