奥村7)私の好きな諭吉の文章(6)・・・27号

                             「私の好きな諭吉の文章」(6)

                         奥村一彦(80年経済卒)

前回は、『通俗民権論』と『明治十年丁丑公論』から、福沢諭吉の並外れた人間洞察の鋭さを論じました。無論、諭吉の書いた内容は、どこを取っても並外れていると言えるもので、わが国の近代の出発点においてスーパースターを得た幸せを私は誇りに思うのです。動乱の時代が天才を要求するのか、天才は動乱の時代に必ず登場するのかなどと、歴史の偶然と必然を抽象的に論じてもあまり意味がないのかも知れませんが、とにかく幕末明治に多くの才能ある人物が出たことは確かで、その中でも並外れた天才をもっていたのが福沢諭吉であり、しかもその天分を十全に発揮できる偶然の機会にも恵まれたという奇跡が重なっています。

今回は『痩せ我慢の説』を論じたいと思いますが、これはあまりにも有名で、私が論じるには手に余ることは承知の上で、まあ福沢を論じて愉しむということです。

1 『痩せ我慢の説』(明治24年冬)のこの題名がまずおもしろいのです。「痩せ我慢」という誰でも知っている俗語を使い、人を説得しようという目的が露わです。この本は、幕臣で海軍の有力者であった榎本武揚の新朝政府への転向と、同じく幕臣で江戸城を守っていたはずの勝海舟が闘わずして江戸城を開城してしまったことへの怒りを露わにした本です。

では何を「痩せ我慢」するのか。榎本に対しては、北海道で江戸政府存続を夢見て闘った武士の本領をすっかり忘れて、敵方の新朝政府で貴顕に加わったのはいけない、才能があっても我慢して、せめて敵側に取り入るようなことはしてはいけないということでしょう。勝に対しては、なぜ闘わずして敵側に江戸城を開城してしまったのか、人命や財産を失っても、武士が闘うことはすなわち国を守ること、福沢諭吉の言う「独立」を貫くことで、これを発揮していたほうが江戸喪失よりもっと重要な精神を日本に保存したのではないかということでしょう。

『 立国は私なり、公に非ざるなり。地球面の人類、その数億のみならず、山海天然の境界に隔てられて、各処に群を成し各処に相分るるは止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源あれば、これによりて生活を遂ぐべし。また或は各地の固有に有余不足あらんには互にこれを交易するも可なり。すなわち天与の恩恵にして、耕して食い、製造して用い、交易して便利を達す。人生の所望この外にあるべからず。なんぞ必ずしも区々たる人為の国を分て人為の境界を定むることを須いんや。いわんやその国を分て隣国と境界を争うにおいてをや。いわんや隣の不幸を顧みずして自から利せんとするにおいてをや。いわんやその国に一個の首領を立て、これを君として仰ぎこれを主として事え、その君主のために衆人の生命財産を空うするがごときにおいてをや。いわんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者を戴てこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害を殊にするにおいてをや。 』

福沢は、まず立国すなわち国を建てることは私的感情にすぎず、首領をたてて境界をあらそうなど人間のする本来のことの二の次、三の次のことで、まずは自分一人で生産し、それを消費し、足らずを交易するだけでいいのだと宣言します。ところが、人々は、例外なく、集団を形成し、そのうち首領なる者を立てるようになり、隣と諍いをし、しかも首領のために生命財産を賭けるようなことをしている。そのような行為はすべて私的感情によって行われているとしか考えられないが、いったいこれはいかなることかと問います。そこで次のように続けます。

『 すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢以来今日に至るまで世界中の事相を観るに、各種の人民相分れて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑を共にし、婚姻相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてその趣を同うして、自から苦楽を共にするときは、復た離散すること能わず。すなわち国を立てまた政府を設る所以にして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着して自他の分を明にし、他国他政府に対しては恰も痛痒相感ぜざるがごとくなるのみならず、陰陽表裏共に自家の利益栄誉を主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君愛国等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎たる人類の私情なれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道にして 』

人が集まって群を形成するときは、これまた知人、友人、家族で成り立っているが、これは私的感情から行われるところの、つながる感情にすぎないのに、これに固着することが「立国の公道」と呼ばれる人類最上の美徳となるのは、不思議な現象である。そんな「国」なるものを大事に思い、生命を賭するなどというのは児戯に等しき行為であることは十分承知しているが、これに依らないではまた「国」の独立は維持できないのもまた人類歴史の証明するところである。そこで、負けるとわかっている闘いであってもあえて闘うのは痩せ我慢主義で、これなくしては小国の独立は保たれない、と言うのです。

2 この有名な箇所は、よく考えれば不思議な文章で、はじめから忠君愛国、国の独立はこれをもって好く保たれるべきであるとストレートに言えば、平板な文章になることは避けられないとしても、一応論旨は理解されると思うのです。しかし、福沢はさすがに天才で、一人の人間の独立と国の独立という場合、そこにある矛盾に気がついていたのだと思います。

福沢の主張する一人の人間が本来独立している姿というのは、隣人と争うことなど予定していないのに、家族など集団となると、その集団の独立は、一人一人の人間の独立心があってはじめて集団の独立を願うことになるのであるが、それは一人の人間の独立とは矛盾するところの自己の生命を賭しても他人と争うことになるという矛盾です。

一身独立して一国独立す、というのは同じ独立でもその中身のレベルが違っていて、出発点は自ら生きるためだけに働き、他人を毫も傷つけないはずなのに、国の独立となると、一旦個人の独立を自己否定して、はじめて成り立つものだということになると言うのでしょう。この矛盾はしかしどこまで行っても解決出来ない深刻なものです。個人の独立より、国の独立が重い、と福沢は決して言いません。あくまで根本的には人間は天賦人権のもとに生きているので、集団生活であってもこれは否定されないと考えています。福沢の中で、天賦人権を生きる基本としながらも、国の独立すなわち西欧列強から独立しなければならない闘いに直面したとき、いきおい国権論者の相貌が現れるのはいたしかたないにしても、福沢自身はその問題性を十分認識していたことはよくわかります。むしろ、この矛盾=アポリアは全人類の矛盾であり、永遠に未解決のものとして続くところの国家の存続理由の問題です。これを共同幻想といったり、国家理性の問題といっていることの根本問題です。

その意味で、福沢は国家の本質とその存続の理由、あるいは秘訣を明治の初めにすでに掘り下げていたのです。明治の初めにというのは明治4年ころすでに「報国心」は私情であると言っているからです。

3 この『痩せ我慢の説』については、まだまだ論じたいことがありますが、この辺で擱筆して、続きを書きたいと思います。

(続く)

(奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所)

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