奥村6)私の好きな諭吉の文章(2)・・・23号

             「私の好きな諭吉の文章」(2)

                              奥村一彦(80年経済卒)

「いったい、学問の趣意はほんを読むばかりではなく、第一がはなし、次には、ものごとを見たりきいたり、次には道理を考え、其次に書を読むと云ふくらゐのことでございます」

『福沢全集緒言 会議弁』

これは明治7年6月7日集会での演説原稿です。同日夜、肥田昭作氏宅に皆が集まり、予め印刷した原稿を諭吉自身が読み上げたとあります。この時代に録音機があったなら、私も是非諭吉先生によるこの部分の生の声を聞いてみたいと夢想します。

素晴らしいのはこの順番です。学問を志そうと思い立って慶応義塾の門を叩いた学生がいたとして、まだまだ世の中を知らないその学生は、まず授業に出るなどして、あるいは経済学の先生の講義を聞き感銘を受け、そこでその話をもとに感銘を受けたことを深めようと、市中に出て見たりきいたりすることでしょう。たとえば、為替というものは銀行でお金を払って為替という用紙さえもらえば、遠いところにそれを送って受け取った相手がその紙を別の銀行にもって行きさえすれば、その場でお金に替えてくれる制度であると説明を受け、早速、銀行に行き為替を手に入れ、親元に送ってみたりしてその確かさを確認する行動をとるでしょう。その次に、なぜこのような貨幣に代わる紙片の流通制度が世の中で通用しているのかを考え、最後に経済書を読む、という順番で、ものごとの道理、この場合は金融取引の仕組みを理解するでしょう。

従って、福沢諭吉のいう、「はなし」を聞く→「見たりきいたり」する→「道理を考え」る→「書を読む」、という順番はまったく理に適った順番で、つまり人の知見が拓けて行く順番なのです。これくらい解りやすい学問のはなしはありません。

ところでもうお気づきと思われますが、上記の演説原稿のひらがな表記が抜きんでている点です。「ほん」、「はなし」「ものごと」「見たりきいたり」など漢字で表記することもできるはずですが、あえてひらがなを多用しています。福沢諭吉が漢字を使う場合とひらがなを使う場合の区別の原則をたてていたかというとどうもそうではなく、本、話、物事、聞く、という表記は別の箇所で見られます。そうするとこのひらがな表記は、演説者が原稿の字を見て喋りやすいようにひらがな表記をした以外に考えられません。わざわざ印刷までして配ったのですから、それを用いてまた誰かが今度は「はなし」を「する」ための手本として用意したものと考えられます。

すると、先ほどは「はなし」を「聞く」、という設定をしましたが、福沢諭吉のいう「第一がはなし」というのは、「聞く」ばかりではなく、「はなし」を「する」ことも含んでいるでしょう。むしろこちらの方が諭吉先生の「演説」を薦める意図にかなっていると思われます。「はなし」を「する」というのは高等技術で、人は自分が最もよく理解していることがらだけしか話すことはできません。中途半端に理解しているものは、話す方が理解できていないので必ず途中から混乱します。だいたい40代の大学の先生がそういう傾向にある気がしませんか(勝手なことを言い、すみません)。

話すというのは、法律学で学ぶところの意思の伝達行為で、脳で考えたことを神経を使って命令を送り、舌と喉と唇で空気を振るわせ、その空気の震動を相手の耳の鼓膜に到達させて、相手がこれを脳で翻訳する、という複雑なメカニズムを必要としています。しかも短時間でこれを行います。聞き落とすと、もう次のことを話していますので、聞く方も一生懸命です。そうすると必然話す内容は聞く相手にもっとも分かりやすい言葉を選ぶしかありません。難しい漢字よりひらがなが道具として有効になります。

例えば、明治4年の段階で、A 人は皆平等です、 というのと、B 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」(『学問のすすめ』初編)、というのとでは、どちらが耳で聞いて理解しやすいかというと、断然Bでしょう。

Aの「平等」という漢語を理解することは、武士階級出身であればともかく、「平等」が大衆の日常語でもなく、内容も抽象的ですので、非常に困難です。だいいち「平等」という難しい漢字を頭に思い浮かべなければなりません。Bは、口に出すと「天」を除き和語のひらがなだけで構成されており難しい言葉もありません。とても理解しやすいし、イメージもたちまち湧いてきます。漢字を頭の中で思い浮かべる必要もありません。

そうすると日本語を使える人は、ひらがなと漢字のふたつを持っていて、これを使い分けしていることに考えが及びます。思えば、わが国の言葉は、もともと書き言葉がないので、倭語に漢字を当てたり、漢字を倭語読みにしたりしてきました。一方、正統漢文をマスターした知識人は文章と言えば漢文であるとの伝統も創り出し、日本文と漢文の2つの系統が奈良朝前から江戸の終わりまで続いたものです。そしてどちらかというと漢文の読み書きができる方が知識人として一段高く尊敬されたわけです。

日本人がどれだけ漢字のふるさと中国に引き寄せられていたかというと、京都を描いた屏風を「洛中洛外図」といいますが、これは平安時代に京都を「洛陽」と呼んだ名残です。今風に言うと東京をワシントンと呼んでいるようなものです。日本人は中国から文字はもちろん鉄など金属製品、工業技術(鞍、ブロンズの仏像、金メッキ)、農耕技術、政治制度(位階制)、法律(律令)、宗教(仏教及び朱子学以降の儒学)、建築技術、絵画(法隆寺の壁画)及び陶器など日用の工芸品、その他ありとあらゆるものを輸入しました。もちろん朝鮮からの農工技術(馬、酒、養蚕)や技術者の渡来と定住(奈良=ナラ、ハングルで「都市」のこと。また太秦。)、仏教美術(京都広隆寺の半跏思惟像)や寺院建築の伝来も見逃せません。中国と朝鮮には改めて多大なる貢献に深く感謝します。

さて、日本文と漢文の双方が江戸の終わりまで別系統として連綿と続きましたが、では明治になってこれが一気に解消されたかというと、まさかそのような訳にはまいりません。漢文を書くことができる作家は今ではもう絶えたと思いますが、明治の初めは漢文を使うことがまだまだ知識人のステータスだったでしょう。政治面は一新しても大衆の生活や生活感情が変わるわけでもなく、ましてや言葉が急激な変化を受けることはまずないでしょう。

ここで明治のジャーナリストとして超有名な中江兆民を典型として取り上げます。兆民はまた福沢諭吉ともよく並んで扱われる名誉な人です。この兆民が頑固な漢文主義者だったことは良く知られています。フランス語をよくし、その関係で東京外国語大学の学長に推挙されたのに、漢学講座を作れなかったことに腹をたて3ヶ月で辞任したエピソードは有名です。

兆民については主著が『三酔人経綸問答』で、親しまれているのが『一年有半』です。後者は死を目の前にし、漢文調ですが比較的砕けた文体で、話題も病状と文楽と政治という兆民の気に入った内容なので読みやすいです。問題は『三酔人経綸問答』の方です。

『三酔人経綸問答』には次のような文章があります。(ひらがなだけは現代用にしました)

「猗與進化の理乎進化の理乎前往して倦まざるは汝の常性なり汝前に汝が兒子を驅り紛擾無紀の曠野を去り専制狭隘の渓谷に入りて姑く憩休せしめ其骨體気強爽なるを待ち更に驅出して立憲快濶の岡阜に上り益々目を刮ひ胸を蘯せしめ更に眸を轉じて仰望すれば緑樹天を摩し雲煙横陳して禽鳥其間に和鳴するを見る是れ即ち勝景無比なる民主制度の峯巒なり」

『三酔人経綸問答』を翻訳した桑原武夫氏・島田虔次氏によると、この本が読まれなくなった理由に「難解な漢字が多く、年少読者にはその真意をとらえることがきわめて困難」であることを挙げています。引用した部分の大意は(翻訳は岩波文庫でお読み下さい)、人間を進歩させる「進化の理」が、子供を圧迫して専制政治の渓谷に追いやり、そこで休憩して大きくなった後、そこからまた脱出させて立憲の丘に登らせ、さらに遠望すれば見るも絶景の民主制度の山並みが見える、というほどの意味です。

皆さんまずこれが読めるでしょうか。桑原さんらでも読み方は推測だと断っています。いったい兆民は本気で人民を説得しようとしたのでしょうか。私は大きな疑問を抱きます。しかも問答形式と言いながらこれほど口語から遠いものもありません。漢文独特の大袈裟な美文調にさえなっています。

福沢諭吉との違いはまだあります。福沢は人類の進歩を「進化の理」などという歴史を超越した架空の法則には求めません。人の痴愚は学問(サイエンス)を身につけたかどうかで決まり(『学問のすすめ』初編)、学問をすることにより人の心身が活発に活動するようになり、「文明の進歩は、天地の間にある有形の物にても無形の人事にても、その働きの趣を詮索して真実を発明するに在」るとします((『学問のすすめ』十五編)。兆民との違いは、進歩なるものを、およそ感知できない「進化の理」にもとめるか、人間の努力にまつか、です。前者は人民の努力を信じない考え方で、後者はどこまでも人民の努力に依頼する考え方です。

兆民の人民を信じない態度は「欧米の民権は行われたるがために言論として陳腐なり、我国の民権は行われずしてしかも言論として陳腐となれるは、果たして何を意味するか、人民の無気力を意味するなり。人民の思考なきを意味するなり。かくの如き人民は真の人民にあらざるなり」(『中江兆民評論集』岩波文庫、「考へざるべからず」)とまで行き着きます。観察は鋭いのですが、対策がありません。また人民から超然としてしまっています。

福沢は違います。「文明は、一人の身に就いて論ずべ可らず、全国の有様に就いて見る可きものなり」、「西洋に於ては、この至愚の民、その愚を逞ふすること能わず、亜細亜に於ては、この俊英の士、其智徳を逞ふすることを能わざる」と見て、人民全体の智徳の量を増やし、平均をアップさせることにより文明を進歩させると言います。進歩をあくまで人民の進歩に依頼させます。

この違いはとてつもなく大きいと思います。その究極は暗殺の評価について歴然と表れます。

兆民は次のようにいいます。星亨暗殺事件を聞いた兆民は「文運大いに開け法律用なくして、道徳独り力を逞しくして、乃ち一国人々皆君子なる暁は知らず、いやしくも社会の制裁力微弱なる時代にありては、悪を懲らし禍を塞ぐにおいて、暗殺けだし必要欠くべからすというべき耶」(『一年有半』)と肯定に傾きます。

諭吉は違います。「抵抗の極度を暗殺と思ふは、世上一般の考なれども、必ずしも然らず・・之に反して暗殺は甚だ易し。如何なる愚人にても、執念深くねらへば随分功を奏す可し。結局愚狂の二字を以て評し了すに足るのみ」(『覚書』)と否定します。

この違いは、二人の生き方にもよく表れていると思います。兆民はフランス語をよくし、フランスに留学し、西園寺公望と知己を得て新聞を発行する、というところまでは諭吉と似てなくもないのですが、第一回衆議院選挙に当選してすぐに辞職します。そこで国会を「無血中の陳列場」と罵ります。これは第一回国会が、政府と衆議院が無用な対立をし、通過した法律は2つしかなく、当時発生した濃尾平野の大地震の救済策さえ通過させなかったという非道い状況があったからでしょう。

諭吉は違います。人を教える学校を造り、教科書を発行し、明治十四年以後は新聞を発行し、自ら唱えた国会開設が実現したのに、実際の議論は惨憺たる有様であることを見て『国会難局の由来』を書き、対策を提案します。最後まで人民の進歩を信じ、提言し続けるのです。

人民を信じるか、信じないか、この違いはあまりにも大きく、私が兆民を棄て、諭吉を取る最大の理由です。                                             (続)

* 奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所

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