奥村1)「私の好きな諭吉の文章」(1)・・・(22号)

 文章を書くのが商売なのにちっとも上達しないことに辟易しており、現に今書いているこの作文も苦悶呻吟のあげく漸く緒に着いたところです。商売上から言えば創造的で情熱的な名文を書く必要など全くなく、淡々と事実を構成するほどのものなのに、他人に伝わるかどうか、これが意外に難しいのです。世に「文章読本」とか「論文の書き方」というハウ・ツーものが多々あり、読めばなるほどと納得するのですが、さて実践するとなると直ちに躓いてしまいます。

その原因は、いや元兇は何か、よくよく考えて見ると、行き着くところ頭の中が整理整頓されているかどうか、頭脳明晰かどうかにかかっているのではと疑いはじめ、こうなればもうこれは不治の病で、根本的治療はできません。しかし、名人にならって一生懸命模倣すればせめて多少の上達は見込めないこともありません。
さらに、絵を描くのがへたくそでも絵画評論はできるように、私でも文章の良し悪しはわかります(と思います)。良い文章はどこにあるのか、永い彷徨の末に出会ったのが福沢諭吉というわけです。ですので私の諭吉ワールドの入り口は文章だったのです。ただ一旦入り込むと容易に抜け出せなくなるのがこのワールド。教育論あり、現実政治論あり、国際外交論あり、男女論あり、衣食住論あり、泣かせる文章あり、冗談あり、人間世間普通一般にわたることは何でもござれというまるでラビリンスに迷うが如く、あくまで楽しませてくれます。また、比喩を使ったわかりやすさは抜群としか言いようがありません。
そこで、これからややパラノイア的(偏愛的)福沢諭吉論、題して「私の好きな諭吉の文章」を紹介したいと思います。

さて、私が福沢諭吉に感心したはじまりは『世界国尽』(明治2年刊)です。五七調で子どもがそらんじる様に作られた文章の調子良さには驚いたと言っていいでしょう。しかも国ごとの地理、風俗、歴史の事実や情報が正確に折り込まれています。練りに練ったことはまちがいありません。また、そこには福沢の思想も含まれていて、中国の皆様には失礼ながら、福沢の儒教が文明開化の害とばかり辛めの文句が並びます。

「仁義五常を重んじて人情厚き風なりとその名も高く聞こえしが、文明開化退去(あとずさり)、風俗次第に衰えて徳を修めず知をみがかず我より外に人なしと世間知らずの高枕・・」という政治批判・文化風俗批判に及びます。語調を整えながら「世間知らずの高枕」というのは誠に滑稽な風刺で、風俗画を目の前に見るような効果があります。
一方、北米は褒めちぎって「約束固き政(まつりごと)、政体ありて主君なく、天下は天下の天下なり、四年交代(かわり)の大統領、上院下院の評議役、一国中の便不便、議(はか)り定めし法律の威は行われ猛(たけ)からず・・」と、中国の名言も駆使しながら、米国の政体を簡潔に伝える、これほどの名調はまず福沢の独壇場です。

福沢の書物の読書を重ねれば重ねるほど、そしてその人の思想と行動を知るにつけ、日本の近代の曙にこれほどの大人物が出現していたのかと惚れ惚れします。わが日本は福沢諭吉を得て幸せだと思います。天才はその天才を隠すことができないのか、いや時代が天才を生み出すのか、日本史上のありがたい奇跡と言って憚りません。
 
そこで、まず先生に敬意を表し、私の好きな素晴らしき文章をいくつか取り上げたいと思います。世に福沢諭吉の言葉を取り上げた本はとても多く、それに伍する勇気はとてもありませんが、私は私なりの、偏愛的文章を選びたいと思います。数回にわたりご紹介したいと思います。もとよりただ他愛もない紹介文で、論文・研究書とは違います。知識も不十分です。ただただ読んで楽しんでいただければそれだけで嬉しいです。

第1回

 「学校の設(もうけ)あれば、其状、恰も暗黒の夜に一点の星を見るが如く、仮令(たと)ひ明を取るに足らざるも、稍(や)以て方向の大概を知るべし」(『旧藩情』緒言第3段落、明治10年)

  『旧藩情』の緒言は全文これ名文です。声に出して読みたいものです。第1段落も好きなのですが、第3段落の福沢の学校に対する思い入れと位置づけがどのようなものであったのか、この文章からまず読み取ろうと思います。
学校を星になぞらえ、昔、旅人たちが暗天に輝く星座の位置を頼りに目的地を目指したという壮大なスケールの自然に喩えるところは、学校が人を導く役割を果たす場所であることを表すのに、これほどぴったりした表現を取った人はほかにいないでしょう。
また、星の明かりは「明を取るに足らざるも、稍(や)以て方向の大概を知るべし」という箇所は、好奇心旺盛な者にとって魅惑的な星を、理科的に表現し直した名文と言って良いと思います。私は夜、星を見ると必ずこの文章を口ずさみます。日本文化の中では星を題材にした歌や話は極めて少なく、わずかに中国文化を身に付けた柿本人麻呂が歌った「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」とか、落剥して夜空を見上げた建礼門院が「月をこそ ながめなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる」と今始めて星を見たかのような文化上の扱いでしかなかったところを、福沢諭吉は、自分の生涯を賭けた学校作りを星座に喩えました。これ自体日本文化を無意識に越えた思考をもっていたと考えますがいかがでしょうか。

福沢がどれほど学校に期待したか『京都学校の記』(明治5年)から抜粋します。福沢は明治5年中津の学校を視察に行く途中、京都に立ち寄り、小学校、中学校を見学します。

「爾後、日本国内に於て、事物の順序を弁じ、一身の徳を修め、家族の間を睦まじくせしむる者も、此の子女ならん、・・一身一家の独立を謀り、遂に一国を独立せしむる者も、此の子女ならん、・・」と最大限の賛辞と期待を表明します。
しかし、現実は厳しいことも認識しており、経済的理由で学校に行けない子供、行っても1、2ヶ月あるいは1、2年で廃学せざるを得ない子供たちのために『小学教育のこと』(明治12年)を執筆し、世に提言します。
「さればここに小学の生徒ありて、入学の後一、二カ月をすぎ、当人の病気か、親の病気か、または家の世帯の差支をもって、廃学することあらん。その廃学のときに、これまで学び得たるものを調べて、片仮名を覚えたると平仮名を覚えたると、いずれか生涯の利益たるべきや。平仮名なれば、ごくごく低き所にて、めしやの看板を見分くる便りにもなるべきことなれども、片仮名にてはほとんど民間にその用なしというも可なり。これらの便・不便を考うれば、小学の初学第一歩には、平仮名の必要なること、疑をいるべからざるなり」、「元来五十韻は学問(サイヤンス)なり。いろはは智見(ノウレジ)なり。五十韻は日本語を活用する文法の基にして、いろははただ言葉の符牒のみ。」と極めて実践的な教育方法を求めます。
貧しい子供達のために心を痛めた福沢の心情が胸を衝きます。
福沢がどれほど教育を重視したか、そのためのどれほど学校が必要であるか、明治の初期に書いた文章でも良く理解することができます。

次回は、福沢の文章がいかに理解しやすいものであるか、『福沢全集緒言』を引き合いに、同時代を生きた諸作家政治家の文章と比較して、また述べたいと思います。  

                       奥村一彦(80年経済卒:弁護士)

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