奥村一彦:私の好きな諭吉の文章(26)

     「私の好きな諭吉の文章」(26) 

                                奥村一彦(80年経済卒)

 

前回は、原稿が書けなくてご迷惑おかけしました。話(会話、対話、演説)による人への影響を言語によってどう論文化するかというそもそも難しいものを追及していることが原因で、まだ時間はかかりそうです。その混迷・混乱現状は、後に書くとして、どうしても先に書いておきたいものがあり、それをまず書きます。

 

Ⅰ 『幻の国・日本の創生 福澤諭吉』(池田浩士著、人文書院。2024年1月30日発行。以下頁数の表記のみのものは氏の著書である。)へのいくつかの疑問

1 この本を読んだ最初の感想として、福沢諭吉批判が数十年も前のものに戻ってしまったのではないかとの錯覚を覚えた。福沢批判の常套として、(1)相互に矛盾する言説を並列させる、(2)福沢の用いた差別的用語を摘出して強調する、(3)それらの作業を通じて福沢評価がゼロかマイナスになるように、プラス面にはできるだけ触れないようにして全体を組み立てる、というものがある。この池田氏(以下氏とのみ表記する)もこのやりかたをすべて踏襲していると言わざるをえない。

もちろん、そうは言っても残された膨大な福沢言説からの抽出といういわば証拠に基づく論立てであるので、氏への反論に対しては根拠薄弱な事実を対置させたり、批判者自身の意図的組み立てで批判してはならないであろう。

 

2 以下、個別の点を取り上げて論ずるが、冒頭に氏の本書の結論がいかなるものであるかを明示しておこうと思う。なぜなら過去の福沢批判の蒸し返しとしか思えないからである。

ひとつは、氏は福沢の視点の「欠落」として「人間と人間の関係を、そして人間と世界の関係をも、一方向の視線でしか見ない、ということである」(328頁~329頁)と指摘する。何のことかというと、「彼の天皇制論は、時代と社会体制の推移に応じて、もっとも長く、しかももっとも大きな現実性をもって、生き続けた著作の一つだった。だが同時にまた、その天皇制論は、福澤諭吉という思想者・実践者に決定的に欠落しているものを、物語っているのである。」(328頁)という問題提起が直前にあり、解答として先の文章に続けて「人民からひたすら帝室に向かう視線がそれであり、盟主たる日本から一方的にアジアに向けられた視線がそれである」(329頁)とつながる。

要するに、福沢はふたつの視線しか持っておらず、ひとつは、人民は皆天皇に向いている視線、また、日本は盟主としてアジアを一方的にみる視線しかなく、人間と人間の関係及び人間と世界の関係も双方向性が欠如しているというのである。

しかし、福沢の視覚をこのようにまとめるのは乱暴すぎる。封建制度の上下関係を解体させ、横のつながりである人間交際を最後まで説いた視点が福沢から失われていたということはあり得ない。多くの言説がそれを証明する。また、朝鮮中国との関係にしても、その政府を弾劾するには躊躇がなかったし、腐敗をもたらした政治思想の根本である儒教を攻撃するには容赦なかったが、一人一人の中国人や朝鮮人に対する接し方は実に温かいものであった。そうでなかったら、開化派の朝鮮人を厚遇したり、中国の思想家梁啓超に影響を与えることはできなかったであろう。

もうひとつは、「彼の『帝室論』もまた、帝室によって精神を収攬される日本人民の天賦人権を想定外のものとしていたのである。だが、そもそも、自由民権論が猖獗を極めた時、民権論者の誰もが唱え、だれもが信じた「天賦人権論」は決定的に重要な一つのことを看過していたのだ。天賦人権なるものは、じつは存在しなかったのである。なぜなら先天的に人権なるものがあるのではないからだ。人権は、いわば無意識のうちにそれの欠如に苦しみ、無意識のうちにひたすら痛切にそれを希求していた人々によって、初めて発明されたのである。」(330頁)との結論である。

福沢が依拠した天賦人権論は、帝室を廃すことまでは想定されていなかった、いやそれどころかそもそも天賦人権論というもの自体が我が国に存在していなかったのだ、したがって、福沢はないものを唱えていたことにこそ大きな問題があったのであり、自由民権論者が天賦人権というユートピア社会を構想しえなかったのも無理はない、というまとめになろう。

実に驚くべき結論である。人権が、各地域における歴史の条件いかんにかかわらず普遍的に存在することと、近代になって徐々に歴史的に認識されるようになったこととは矛盾しない。物理法則は、古代から現代まで同じように貫かれていたはずであるが、それを法則として認識するまでには、発見する歴史的な過程を経なければならない。古代に産業革命など起きはしない。それを必要とする社会的衝動がなければならないからである。また、人権は歴史的に発見されなければならないということには異論はないが、少なくとも福沢の生きた幕末から明治において、米欧の衝撃から米欧に出て行ってかの地を見分した人々にまだ人権は発見されていなかったという歴史認識自体到底受け入れられないし、その時代には人権が発見されていなかったから福沢の『帝室論』に大きな欠陥があるなどという結論はおよそ飛躍がある。

 

3(たくさん書こうと思っていたが、時間的関係もあり、最終章「Ⅴ象徴天皇制と日本の進路」を取り上げ、そこに書かれている『帝室論』・『尊王論』についての福沢批判と交詢社私擬憲法案の評価を取り上げる。)

氏は、福沢を批判する論点として、福沢の天皇論を用いる。上述したように、福沢は日本人民をして天皇に視線を向けさせ、精神の収攬として天皇を崇め奉らせる論陣を張る、という。そのような結論を以下の論の進め方で論証する。

まず、氏は、文明化を進めるためには「血統の維持、万世一系の皇統を維持することに先立って、国体の護持(ママ 奥村注)が第一の課題であることを、福澤諭吉は明言したのである。これが『文明論の概略』で彼が示した帝室に関する考えの第一点だった。」(394頁)という。そして、第二点として「「皇学者」を始めとする国学者たちの多くは、維新後、西洋化の流れに抗するために、帝室を国民の精神的・倫理的な拠り所にしようとしていた。それに対して福澤諭吉は、維新前の数百年もわたって王室の存在さえ知らなかった者も少ない国民が、どうしても王室との間に心情的な交情の関係を結ぶことなどできようか、と批判したのである。」(同頁)という。

氏は、この二点を『帝室論』で覆したという。

第一点目は「「わが帝室は日本人民の精神を収攬するの中心なり」という確信によって、全否定」されたという。第二点目は、『帝室論』の文章を取り上げて、血統こそが国体を維持するうえで重要不可欠あると福沢が言ったという。その文章とは「我帝室ハ万世無欠ノ全璧ニシテ、人心収攬ノ一大心中ナリ。我日本ノ人民ハ此玉璧ノ明光ニ照ラサレテ、此中ニ輻輳シ、内ニ社会ノ秩序ヲ維持シテ、外ニ国権ヲ皇朝張ス可キモノナリ。」である(なお、氏の引用している文章から、氏の注釈を省いた。)。

果たしてそうであろうか。

まず、用語を厳密にしたい。福沢の「国体」というのは、後に歴史的に問題となる「国体」=万世一系の天皇の支配体制とは違い、単にこの国の歴史において他国民に政治権力を奪われないだけの体制を指す。従って、武士の世も国体である。また、福沢は国体の「護持」という用語は使っていない。これを使うと、昭和天皇が直面した「国体の護持」と思想的に混同してしまう。

従って、国体を維持することとは多民族に政治権力を奪われないというだけの観点からすると、天皇に精神の収攬の役割を果たさせることと福沢の国体とは何ら矛盾するものではない。福沢の論旨は一貫している。第一点目の批判は批判として成り立たない。

次に、上記の引用個所をもって、福沢は、血統こそが国体を維持するうえで重要不可欠と言ったかどうか、これは議論に値するが、氏の根拠となるのは「万世」という用語にかかる。ずっと天皇がこの日本社会を支配してきたという歴史観を福沢が持っていたということはおよそ考えられないこと、また、天皇家において血統が維持されてきたという虚偽を福沢が仮に肯定的に記述していてもそれはいわゆる文飾に過ぎず、後に問題となる「国体の護持」という政治思想としての「血統」維持などとは無関係である。血統が国体より重要という風に福沢が変遷した根拠はない。よって、第二点目も批判として成り立たない。

『帝室論』も『尊王論』も、ゆっくり厳密に読めば、天皇を政治社外に放逐する意図、天皇に「親分」あるいは「親方」として、紛争解決手腕を俗社会において発揮させようという意図、我が国の古物を保存させ、とりわけ天皇ら華族には我が国の教育を振興させる努力をしてもらうという意図が十分理解できると思う。氏の言うように華族の女性を国母とするとの記述はあるが、それが男女平等の精神に反するという批判は、論の流れからして的を得ていないものである。

 

4 交詢社私擬憲法案について

氏は、福沢の「天皇論」は、「この戦争に敗北し、占領統治によって「国体」が現実に失われたとき、しかし、『帝室論』は生き続けた」(322頁)として、戦争直後の憲法改正帝国議会での金森徳次郎の答弁を引き合いに出したのち、「福澤諭吉の思想は、ただ単に戦後民主主義の教育理念の中で蘇っただけではなかった。天皇制に関する彼の思想の総体が、金森徳次郎の国体理念として、ひいてはまた「日本国憲法」の根本理念として、新たな生命を獲得したのである。(中略)国民と天皇との相互の共感によって成り立つものですらない。日本国民の自発的な感情、精神を収攬されることに対する自発的な同意によって、天皇と帝室とに対する国民の一方的な思い、「憧れ」によって成立するのである。」(325頁)と述べて、『帝室論』が生きていることを論証する。

まず、福沢が交詢社私擬憲法案にどの程度関与したかはひとまず置いて、私は交詢社私擬憲法案は福沢の思想が反映していることを疑わない。それは、氏も紹介する交詢社私擬憲法案の「第一条」である。「天皇は宰相並に元老院国会院の立法両院によって国を統治す」(氏の引用は284頁)とあることに明らかである。すなわち、福沢らは、天皇を政治社外に放逐するために、天皇は宰相つまり内閣と立法院つまり国会とにより統治す、として、天皇を象徴的天皇として宣言したのである。この政治体制がもし実現していたら、その後の悲惨な日本の歴史は避けえたのではないかと悔やむ次第である。

ただ、氏にはこの点の指摘はない。おそらくこの視点は欠落していると思われる。そして性急に、国民から一方的にあこがれる天皇というものを『帝室論』と同じベースで戦後に生かされたと結論する。

しかし、この結論もまた誤りである。日本国憲法第一条の「天皇は日本国の象徴にして、日本国民統合の象徴である」というのは、政治的にはフィクションであることは常識である。憲法の制定過程をみればわかるように、GHQ草案があり、それを修正したものを日本が国会で審議したのであって、日本国民が天皇を、ましてや昭和天皇を天皇とするという意思や選択を示したプロセスなどどこにもないのである。氏は、そもそも天皇が真に日本国民の憧れであろうかと問題にすべきではないのか。

天皇象徴論はさておき、氏の国民からの一方的な視線で、相互共感がなく、天皇を見る視線が、戦後も福沢によって継続させられたという観点での福沢批判は、到底成立しない。日本国憲法自体、旧憲法の改正という手続きを経て成立してしまったのであるから、民主主義的な憲法であることはその実質にあるけれども、天皇の存在自体や旧憲法は天皇が制定したという歴史上清算されていない残滓はぬぐい切れないのである。氏が、まさかこのことまでも福沢の責任にしようという意図はないと信ずるところであるが、金森徳次郎を媒介に福沢が生きていると願望していることには、一声鳴かずんばあらずという心境である。

 

Ⅱ 話(会話、対話、演説)による人へ影響を与えて社会を変革する福沢については、次を期したい。

 

以上

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