奥村5)私の好きな諭吉の文章(12)・(34号)

 「私の好きな諭吉の文章」(12) 

奥村一彦(80年経済卒)

1 今回は、福澤諭吉の憲法論または国家論について考えたいと思います。最初に断っておきたいのですが、私の専門分野は一応法律ということになっています。しかし、主に民法を中心とする民事事件にかかわることがほとんどで、憲法を論じるのはせいぜい最高裁判所に上告する時の、まあ言ってみればこじつけで論じるくらいが実際なのです。これは訴訟法が上告理由を憲法違反とすることが決められているのでいたしかたなく触れるという仕組みになっているからです。

2 それはさておき、以前から『文明論の概略』の「之を人身に譬へば、国体は猶身体の如く、皇統は猶眼の如し」(以下『概略』、巻之一第二章。岩波書店版「福沢諭吉著作集」38頁上段。以下引用はすべてこれによります。)という文章が、国家有機体説に近い考え方であろうと思っていたところ、先般、戦前、憲法学者美濃部達吉が蒙った「天皇機関説事件」を調べている際に、美濃部の『憲法提要 改定第五版』(以下『提要』令和元年7月1日 復刻版の改訂版)に、「国家」については福澤とほぼ同じ見地に立っているのではないかと気がついたのです。福澤の影響があるといわれる「交詢社私擬憲法草案」の天皇条項や『帝室論』における天皇の政治からの排除の提言などと考え合わせると、福澤の『概略』の上記フレーズは国家法人説で説明できる、あるいは国家法人説の先取りではないかと考え始めたわけです。ただ、浅学なる素人の考えですから、その分野で常識となっていることを知らなかったり、すでに議論が尽くされていることをあたかも発見したかのごとく取り上げたりする過失もあるかと思いますのでなにとぞご容赦ください。

3 福澤が『概略』を執筆した明治7年当時、わが国ではまだ憲法の制定が国民的議論にはなっていませんでした。しかし福澤自身は当然欧米の憲法の存在は知っていましたし、様々な憲法の文献を読んでいたのも知られています。

一方、国とは何かという議論は、わが国では幕末以来「国体論」という名称で知られる尊皇攘夷思想の排外主義的傾向をもつ「理論」が横行していました。福澤はその国体論の中に不純な政治道徳論が含まれていたり、あるいは世界に比類のないなどと夜郎自大な特殊性を強調して、結局、文明の進歩にとっての障害物が含まれていると感じていたにちがいありません。そこで福澤は国体を定義して世に問います。

福澤の国体の定義

福澤の定義は明快です。「物を集めて之を全ふし他の物と区別すべき形を云ふなり」です。この後に続けて「故に国体とは、一種族の人民相い集まりて憂楽を共にし・・」と続きますが、この文章はいわゆる近代国民国家の定義といってもいいでしょう。丸山真男もここは「ネーションの定義」であると解説しています(丸山『文明論の概略を読む』上、164頁)。従って、福澤の核心は「物を集めて之を全ふし他の物と区別すべき形を云ふなり」にあると言えます。

そして、他国に占領されるようなことがなければ、国体を維持していると言えるとし、それとともに政権の歴史はいろいろ変遷があったのだと言うのです。福澤はそれを「政統」と呼び、国体とは区別します。さらにそれとはまた別に君主の権力の承継=相続を「血統」として、それを血筋と定義づけ、国体とも政統とも概念としては区別します。血統のひとつに皇統というものがあり、これが国体とともに連綿として今日に至っていることをもって「或いは之を一種の国体と云ふも可なり」と「国体論」に会釈しておく解釈をします。続けて「之を人身に譬へば、国体は猶身体の如く、皇統は猶眼の如し」という文章が来ます。そして「一身の健康を保たんとするには、眼のみに注意して全体の生力を顧みざるの理なし」と国体を人の身体に譬え、その健康の度合いを皇統の健康状態(眼の光)で伺いうるという考え方を提出します。

その身体に譬えられた「外形」がすなわち現在の憲法論でいう国家であることは言うまでもなく、その「形」を保つために「全国の智力を以て国権を維持し、国体の基、初めて定まるときは、叉何ぞ患る所かあらん。皇統の連綿を持続するが如きは易中の易のみ。」と結論します。国民の努力を傾注するのは国権の維持であり、皇統の連綿ではないことが注目されます。ここは後で触れます。

4 美濃部達吉の国家についての定義と福澤の国体及び政統

美濃部の国家の本質

『提要』は「国家の本質」という項で国家の三要素を挙げます(同『提要』10頁)。「其の一は国民なり。・・国家を構成する人類の全体を国民と謂う」、「其の二は領土なり。世界の列国は各一定の地域を占領し、国民は通常其の地域内に定住し、その地域内に来る者は外国人と雖も其の国の支配に服従し、叉其の地域内においては外国の支配の行わるることを許さず(後略)」、「其の三は統治組織なり。統治とは支配の意にして、統治組織とは支配権者と服従者との関係を為せることを意味す(後略)」と列挙します。これら3要素を国家の外部要素と呼び、さらにそれら要素を取り出したのち、さらに「本質」を極めるためには第3の要素「統治組織」の本質を明らかにしなければ国家の本質をとらえたとは言えないと論を進めます。

福澤の「国体」の定義には美濃部のいう第一の要素(国民)と第二の要素(領土)が含まれていることは明白です。では美濃部の第三の要素である「統治組織」と福澤の政統・皇統との関係はどのようになるのでしょうか。それを論じるために美濃部の「統治組織」の説明を見てみましょう。

美濃部の統治組織=団体説

美濃部は「統治組織」については、5つの学説を挙げ(簡略にしますが)、実力説、道徳説、有機体説、合力説、団体説と挙げて、そのうち団体説が正当とします(ただし有機体説は団体説の生みの親です)。団体説は「(五)或いは国家が国民の全体を以て構成せらるる団体的単一体なることを認め、団体として意思力を有し生活力を有するものにして、統治の権力は此の団体に帰属するものなりと為す」と紹介し、さらに団体説の目的を「国家の本質に関する正当なる見解は唯団体説にのみ求むることを得べし。団体説の主眼とするところは国家が単に現在の国民のみならず、遠き父祖より生命を受け後代子孫に其の生命を伝うる国民の全体の結合より成る単一体にして、其の分子たる国民各個人の生命とは異なり永久的の生活体を為し其れ自身に目的を有し、意思力を有し、殊に統治の力は此の団体的単一体に属するものなることを主張するの点にあり」(『提要』10頁)と述べます。

福澤の「国体」との近似性

福澤の「国体」はその定義の中に美濃部のいう団体説の定義の一部、「永久的生活体」が含まれていることは明らかです。普通、自然人と区別された法人格は、株式会社同様それを運営する自然人の交替や死亡があっても、それ自体の存在を観念することができ法人の永続的存続が保障される人為的構成物です(ただし法人の性質にも議論があり、「団体実在説」をとるかどうかは別の議論です)。そうすると美濃部の団体説の核心である「統治の力は此の団体的単一体に属する」は、福澤はどう考えたのでしょう。

福澤の「政統」論

そこで福澤の「政統」論が必要になってきます。福澤は「政統」という用語を用いて、維持されている国体を支えるものとして政統の存在を持ち出します。これは時の政権を政権たらしめている権力の正統性なるものです。「政統」とは「即ち其の国に行われて普く人民の許す政治の本筋」と定義します。これは権力が統治の正統性を獲得した状態を言うのですが、最初は暴力や戦争で奪った「権」も、「時の経過するに従って次第に腕力を棄てて道理に依頼せざるものなし」という、最終的に人民の支持・同意を得てはじめて統治権を維持しうることを指しています。歴史的には貴族から武家へと変転してきた歴史を前提にしています。

美濃部の団体説の統治権の所在と福澤の政統との関係

福澤は統治というのは、歴史的に、貴族から武士に移行したり、また、武士内部でも奪い合いがあり、さらに明治の新権力が成立したりしてはいるが、それらはいずれも「普く人民の許す政治の本筋」であるという以上、統治は人民に基礎づけられている、すなわち政治権力は最終的には人民に許され、支持されて、それを政権が他国に奪われていない状態を一貫して維持しており(国体)、それはとりもなおさず、奪った権力が次々と引き継がれているというよりも、権力は人民に帰属しておりまた人民から発しているということに帰着すると福澤は考えていたと思われます。この人民に帰属するというのは観念的な帰属で、これを法人としての国体=国家に主権があるということと同じ意味とすることになるのです。源平が争おうと農民はその観察者であったと言っていますが、権力を武力で取ったと思われる源氏にしても、奪取後、安定的に振るうためには農民の支持がなければできないのです。従って、政統というのは権力を取ったものが主張するのではなく、最終的にはそれ以外の人が権力を承認する=与えるという、歴史を見る上での発想の転倒がここで起こっているのです。そうすると主権は常に国体に帰属するものであるという命題が理解されるのです。

また、そのように考えないと「我国の皇統は国体と共に連綿として外国に比類なし。之を我国一種、君国並立の国体と云いて可なり」という言い方の意味も理解できなくなるのです。皇統は身体である国体の健康状態を知らせる役目しかないはずであるので、結局、両者並立というのは国体も皇統も同じように途切れなく続いており、眼の光は国体の健康が維持されてきた「徴候」として把握しうる存在に過ぎないと言っているのです。皇統に権力が帰属するなどとはひとことも言っていません。結局、皇統は国体の下位的存在なのです。なお福澤が、本当に皇統が連綿であったと信じる根拠はなかったはずです。したがって、ここは本来は政統のひとつでありうるところの君主政体への配慮だったのでしょう。福澤は江戸幕府の官吏で、天皇=虚位であることを見抜いていましたから。

以上のことから、福澤は抽象的には主権は常に国体にあるとしていたと解釈できるのではないかと、そうすると福澤も知らずしらず後の国家法人説を主張していたことになる、というのが私の結論です。

4 福澤の国体説は、国体には政統である君主でも人民でも含まれているので、明治憲法体制をもってしても、福澤にとっても主権は国家にあると説明することができるのです。福澤の影響があるといわれる「交詢社私擬憲法草案」は「第一条 天皇ハ宰相並ニ元老院國會院ノ立法兩院ニ依テ國を統治ス」とあり、これは天皇が統治すると言っているだけであり、これを美濃部のように機関としての統治行為であると説明することは少なくとも美濃部が行った明治憲法の解釈よりも容易です。なぜなら、美濃部にとっては明治憲法第四条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」という大変ハードルの高い君主制原理を表明する条項がありましたが、福澤の時代はもっと言論の自由がありましたから。しかし、美濃部は果敢にこれに挑戦し「然れども憲法は唯統治の権能が天皇に出ずることを定むるのみ」とし、さらに畳みかけるように「憲法の文字によりて国家の本質に関する学問上の観念を求めんとするが如きは憲法の本義を解せざるものなり。」と天皇個人に主権が属しているという考えを否定する立場を堂々と主張しました(『提要』17頁)。この点で、美濃部はまことに尊敬すべき希有の学者であったことは間違いありません。当然ですが「交詢社私擬憲法草案」は明治憲法第四条のような君主制原理を意味する条項は提出していません。むしろ、軍事も含め政治はすべて宰相以下の機関に委任する形式を貫いており、そのため象徴天皇制のはしりとの評価をされています。それ以上に、そもそも主権が福沢の言うように「国体」にありとせば、国家法人説と同等になるのです。すなわち福澤は核心において君主制原理を否定していたのです。

5 最後に

しかし、現実には福澤の案は排除されたので、まことに残念としか言いようがありません。明治憲法が抱えた難問、すなわち天皇が全統治権を掌握するという命題と自ら作った欽定憲法で自らの統治権の一部が制約されるという矛盾を解決できなかったことが、我が国の政治を歪め軍人の容喙を許し、破滅の道に導いたといえるでしょう。憲法学上、この制約を自己制約と説明することもできないわけではないのですが(それが通説でしょうが)、しかし、全能の天皇が自己制約をするということ自体、説明に無理があるし、憲法という「形式」を採用するならそのような説明は不可能で、それなら初めから憲法を制定しないか、制定するなら天皇の統治権は憲法により制約されているということを正面から認めたものにすべきだったと私は悔やみます。

そうしないと「国体論」という定義あやふや或いは内容空疎なものに強大な政治権力、とりわけ軍事的力が充填されると途方もない破壊力を発揮するというのが歴史の教訓ではないでしょうか。我が国の国体論しかりドイツの優越なるアーリア民族という人種論ではなかったでしょうか。

福澤がいかに偉い人であったか強く思い知らされるのです。

*この原稿を出した後、心配になってヘーゲル「法哲学講義」(長谷川宏訳、作品社)を見ましたところ、257節以下で、国家を有機体的に考察せよといっており、273節で様々な諸権力が統合されて「国家は生きた全体をなし、各要素は有機的につながって一つのまとまりをなすことも、見落としてはなりません。」とあり、福澤の『概略』の理解と離れていないと思い、もしそうなら福澤は世界的レベルだったと言えるのではないか思いました。                 以上

(奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所)

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