奥村 一彦(21)~私の好きな諭吉の文章(21)~・・・43号

      「私の好きな諭吉の文章」(21) 

                                奥村一彦(80年経済卒)

 福沢諭吉記念慶應義塾史展示館の開設を喜ぶ

本年5月11日、福澤諭吉協会主催の「一日史跡見学会」が久々に開催され、参加しました。コロナウイルスが、人々の社会的接触を断ってしまい、福沢思想の根本にある人間交際ができないという大きな損失を招いていました。いまだ終息したわけではないですが、ようやくコロナに関する医学的知見も進み、社会も耐性を持ち始めました。私も満を持して臨みました。

この企画は実にぜいたくな企画で、午後1時に、三田演説館に集合し、そこで展示館開設のいきさつや意義などを聞き、そのあと一時間ばかり、あの三田山上の壮麗なゴチック建築の元図書館の2階に開設された展示場で展示品を見た後、かつて山の上食堂があった場所でお茶タイムもあるという構成でした。三田演説館は学生時代一度だけ入ったきりで、もう一度入りたいと願っていたところでした。もうこの機会を逃すと次はないという切迫感もあり、京都から参加しました。おそらく参加者の皆さんも同じ思いだったのではないでしょうか。

三田演説館は、演説館前の説明板では、明治8年5月1日に建築されたとあります。時あたかも、征韓論で下野した板垣らが自由民権運動の濫觴となる「民撰議院設立の建白書」を政府に提出したのが前年で、不平士族の反乱と言論戦が俄かに巻き起こっていた時期です。福沢も、明治7年に着手した『文明論之概略』が翌明治8年8月ころ上梓にこぎ着けたという重要な時期です。このような時期に演説館は出現したのです。『福沢全集緒言』の「会議弁」に建設までのいきさつが情熱的に書かれてあります。三田演説館の入口上には「会議弁」の中身が額に入っており、私の好きな諭吉の言葉「第一がはなし・・」も紹介されていました。「第一がはなし」は、諭吉の原点である人間交際の出発点でもあります。

さて、見学会は小室正紀先生、山内慶太先生、都倉武之先生が案内人なっており、福沢研究の慶應オールスターという面々でした。

演説館で、都倉先生から開設するまでの紆余曲折と展示の仕方の苦労話が話されました。展示構想は相当以前からあったものの諸事情で実現せず、ようやく今日実現したこと、そして何より重要なのが、何を展示し、それで伝えるものは何かということに苦労した点です。福沢は単に残されている文章だけでは(それ自体膨大ですが)その全体像が見えない巨人で、日常の起居動作や話しぶりなど具体的な身体性が、福沢の思想を伝えるうえで重要な要素ではないかということです。私自身も福澤体験をした伝説の福澤像を読むのが好きです。

都倉先生のお話のとおり、展示品も時代順・性質ごとに厳選され、展示方法(見学者自信が操作する映像などもあります)も工夫され、説明も簡明になされています。

百聞は一見に如かずですが、おもしろかったものを二つだけ紹介します。実際にはどれも面白いものでしたが、それを書き出すと際限もないのでそうするだけです。

どう見てもカレー汁入れのスズ(銀ではないと思います)の洋食器と大きめの大匙。これらに墨汁の跡が残っており、これで墨を溶いていたことがわかります。物の実用性のみを取り出す発想が徹底していたということでしょう。まさかカレーを食べるときは洗って使ったということはないとは思いますが。とにかく思想は外部に現れます。こういう形で思想が形で残るのかといたく感動しました。

もうひとつは、『言海』出版記念会の招待状(本物には祝宴とある)への断然「欠席」の書き込みです。白紙に薄い水色で古今集風な散らし書きがしている紙に、招待者名が活字で並べられていますが、「福澤先生」の前に「伊藤伯」とあり、伝えられているところでは、自分の前に伊藤なる政治家を置くのは『言海』祝宴にふさわしくないという憤りだとのことです。確かに「欠席」の墨字は大きいし、憤りで字が乱れているように見えます。学問と政治を峻別し、勲章でも政治家は受け取って良いが、学者は政府のしもべになってはいけないので受け取ってはいけないとの考えをもっていました。今となっては誰も届かない崇高な考えを持っていた福沢の面目躍如という展示品でした。

それ以外にも、多々あり書きたいのですが、見に行きたいと思わせるのがこの文章の狙いですので、少し不足くらいがいいかなと思い、筆を擱きます。

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