奥村4)私の好きな諭吉の文章(5)・(26号)

「私の好きな諭吉の文章」(5)
奥村一彦(80年経済卒)
:弁護士

前回、次回の予告として「ジャンルはめちゃくちゃにして、福沢のすごい文章をあれこれ取り上げたいと思います」と書いてから、改めて著作集など読んで時間を過ごしてしまいました。
今回は、福沢諭吉の並外れた炯眼というか、洞察力の深さについて、『通俗民権論』と『明治十年丁丑公論』からそれぞれ一節を引いて、ふたつの人間洞察の鋭さを論じたいと思います。なぜこれを取り上げるかと言いますと、それぞれの福沢の記述は、日本人の性質あるいは国民病を言いあてており、我々の文化の深いところで我々を支配している「精神」あるいは福沢流に言えば「気風」があり、社会の分析をするときには必ずや重要な視点を提供するからです。今も変わらない、悪く言うと宿痾のようなものです。それに加え、最初の問題については、かつて私自身が見て衝撃を受けた西洋人のある行動が、長い間忘れられなくて、それをいったいどう理解したらよいか考えあぐねた問題について、福沢の記述がその解決というか文化・制度の違いの理解の大きな鍵となったからです。

1 『通俗民権論』(明治11年6月18日)の「第三章 煩労を憚らざる事」の第二段落から

「 第一、公事を無理と知りながら訴えず租税を不公平と知りながら承諾する者の本心を叩て之を尋れば、直を以て自ら居り曲を以て政府に帰し、聊か政府に仮して身躬から自得するの意なきを得ず。然りと雖もその無理不公平なるものは何人の見を以て之を定めたるか、必ず本人の鑑定を以て自ら無理不公平と認めたる所ならん。一人の見を以て私に無理不公平と認めれば、政府も亦政府の見を以て正理公平と認めることならん。結局理非曲直の未だ判然ならざるものと云わざるを得ず。出訴公論はこの未判の理非曲直を判然たらしむるの方便なるに、この方便を求めずして冥々の際に曲を政府の一方に帰するは、人民の義に於いて相済まざることなり」                          『通俗民権論』

この「煩労を憚らざる事」の章は、民権を伸ばすためには「犬の糞を避けて通ると之を掃除するとの二様」の行動様式のどちらを取るべきかを論じる箇所です。この問題提起の仕方もおもしろいのですが、ともかく現状として学者も人民も「無理圧政の局に当たる者あれば、之を知りながら避けて通るの策に出を常とす。」との例として、我が国における公事(訴訟)を避ける強い傾向について述べる章です。
私が深く感心したのは「然りと雖もその無理不公平なるものは何人の見を以て之を定めたるか、必ず本人の鑑定を以て自ら無理不公平と認めたる所ならん。一人の見を以て私に無理不公平と認めれば、政府も亦政府の見を以て正理公平と認めることならん。」との文章です。つまり、わが学者人民が訴訟を避けるのは、あれこれめんどうな手続きや費用がかかり煩わしいということがその動機にあるといわれているが、しかしそれだけではなく、不満を持つ人が相手を無理不公平なやつだと鑑定する根拠は、ただその人だけの見解であり「私に無理不公平と認め」ているに過ぎないということで、未だ「出訴公論」により黒白はつけようとしないというのです。これは非常に重要な観察です。日本人の傾向として、自分は常に正しく、相手は必ず間違っているとの「私」的な正義を振りかざし、公論に付さないので、いつまでたっても決着がつかないというのです。こういう社会では、相手もまた自分の私的正義を唯一の正義と思い込んでいるので、結局、私的正義と私的正義が争うことになり、必ず言葉より直接の暴力、喧嘩争闘、場合によっては殺し合いに発展するのです。あるいは暗殺や陰謀になるのです。
私がパリ市内で見た光景は次のようなものです。ある夕方リボリ通りというルーブルからコンコルド広場に向かう一方通行の2車線の車道に沿う歩道を歩いていました。観光地ですのでほかにもたくさん人が往来しています。そうしたところ後ろから2台の車がまるでラリーをするかのようにものすごいスピードで2車線を並進して走行してきたのです。私は歩道を歩いていたのですが、結構危ないなと思ったものです。コンコルド広場に入るには少し道が左にカーブしているので2台の車とも左にカーブしたのですが、あわや接触しそうになりました。結局実際の接触はなかったのですが、左右に離れ、右側の車は歩道の縁石で車輪をこすり、火花が激しく散り、2台とも停止しました。問題はここからです。2台の車から運転手がそれぞれ降りてきました。私は緊張しました。日本でなら必ずこの二人は少なくとも口論するでしょう。悪くすると殴り合いを演じたりします。しかし、違ったのです。この二人は同時に歩道に向かってそれぞれ違う方向に走り始めるのです。そして、歩道の通行人に話しかけ、今起こった事故の状況についてやりとりをはじめたのです(私のフランス語能力はとてもついていけませんでしたが)。もうあっけに取られました。私は職業上、日本で交通事故後このような行動を取った例はまったく見たことも聞いたこともありません。むしろ、軽い接触事故や追い抜きでひどい傷害を残す喧嘩争闘を演じた例ならいくらでもあります。毎度テレビニュースで聞いたこともあるでしょう。要するに、私が見たフランス人の行動は私的正義ではなく公的正義を求めていたのです。無論、これは福沢の上述の引用を読んではじめて納得したものです。
だから欧米では民事も刑事も裁判が口頭主義だし、また充実しているのだと思います。しかし、私自身はこの当時は、制度というものは輸入しただけでは根付かず、もっと時間をかける必要があるのだというくらいにしか考えていませんでしたが、福沢諭吉のこの箇所を読み、単に煩わしい手続きを面倒がるという以上に、日本人は私的正義で闘うから、裁判を厭い、口で言うより手の方が早い文化を延々と引き継いで来ていることを理解しました。そういえば裁判ものは欧米に多いですが、日本では文学や演劇に裁判ものはありません。あるのは私闘(赤穂浪士)、道行(心中もの)が中心です。シーザーを殺害したブルタスとマーカントニーの演説(これは史実)とそれをシェイクスピアなどが演劇化したもの、陪審裁判の「12人の怒れる男」、最近見た娯楽映画の「猿の惑星」でさえも進化論を巡る裁判劇でした。福沢の西洋体験は想像つかないくらい深かったのでしょうね。演説の重要性を説くはずです。

2 『明治十年丁丑公論』から。
西南戦争の際の全国の新聞の西郷に対する卑劣な論調に対し、福沢が反論する論点のひとつに、西郷が志を得れば、逆にそれに不平を持つ者が現れ、結局、第二の西郷を生み、さらに騒擾を生むことになるから、西郷を叩く必要があるとの論に対する反論部分です。

「西郷が志を得れば政府の貴顕に地位を失う者あるは必然の勢いなれども、其貴顕なる者は数名に過ぎず、之に付会する群小吏の如きは、その数、思いの外少なかるべし」

つまり、政府のエライさん方のうち、西郷の復活によりその地位を失うかも知れない者がいるだろう、ただその数は少ないだろう、さらにそれについて行く群小吏どもは想像するより少ないものである、というのです。そこで福沢が現象として持ち出すのが、「試みに旧幕府転覆の時を思へ」と幕末の佐幕派の転々変節する有様です。

「彼の奸族等(薩長土の志士ら-筆者)は此の勢いに乗じて関西諸藩の衆を合従し、之に附するに官軍の名を以てして、大胆不敵にも、将さに長駆して東下せんとするの報を得て、在江戸の幕臣は無論、諸藩の内にても佐幕家と称する者は同心協力、以て賊兵を富士川に防がんと云ひ、或いは之を箱根の険に厄せんと云ひ・・将軍の御前に於いて直言争論、悲憤極まりて涙を垂れ、声を上げて号泣する者あるに至れり。其の忠勇義烈、古今絶倫にして、人を感動せしむる程の景況なりしかども・・その献言策略も遂に行われず・・是においてか彼の佐幕家の一類は、脱走して東国に赴く者あり、軍艦に乗って函館に行く者あり・・様々に方向を決する其の中に、当初、佐幕第一流と称したる忠臣が、漸く既に節を改めて王臣たりし者亦少なからず」
ここからが滅法おもしろいのです。
この早くも官軍側に寝返った佐幕第一流派を残った佐幕派は彼らを「獣視するもただならず」して、「義捨つるの王臣たらんよりは、寧ろ恩を忘れざるの遺臣となりて餓死するの愉快にしかずとて、東海俄に無数の伯夷叔斉を出現したるは、流石に我が日本の義気にして、彼の漢土殷周の比にあらざるものの如し。」
ところが、
「然るにその後、脱走の兵は敗北、奥羽の諸藩は恭順謝罪、次いで函館の脱艦も利あらずして降伏する者次第に多く、随って降れば随って寛典に処せられ、又随って官途にご採用を蒙り、世間の時候、自ら温暖を催して、又昔日の殺気凛然たるものに非ず。是においてか、さきの伯夷叔斉も、漸く首陽の麓に下り、漸く天朝の里に近づき、王政維新の新世界を見れば、豈図らんや、日本の政府は掛巻くも畏こき天皇陛下の政府にして、徳川こそ大逆無道の朝敵なりき。・・昨非今是、過って改むるに憚るなかれとて、超然として脱走の夢を破り忽焉として首陽の眠りを醒まし、今日、一伯夷の官に就くあれば、明日は又二叔斉の拝命するありて、首陽山頭、復た人影を見ず。」

この部分は、まるで講談を聞くような、調子の良いリズムとおもしろい表現に溢れています。是非読んで下さい。幕末明治の佐幕派の天朝側への裏切り、変節が集団で行われた事実をもって、西郷が政府に復したとしてもそれに不満を持って政府を去り、騒擾を起こす者などいないという例にしているのです。このような集団で転向するという現象は、我が国の歴史上時々見られる現象です。例えば、第二次世界大戦後、昨日までの軍国主義者が今日は軍国主義を呪う平和主義者を演じたという観察があります。このような現象が何度も起こっているとしたら、私たちの性質ではないかと観察されても仕方がないのです。その現象の原因、あるいは深いところでの私たちの文化のありようがあるのではないかと思われて仕方ないのです。皆様のご意見を聞くことができれば幸甚です。例えば、日本人は宗教心がないとかあまり深い信心はもっていないなどと言われます。その裏面としてどのような宗教あるいは宗教めいたものでも受け入れるという性格があるのではないかとも思います。しかし、深く信じることもないので別のものが現れると簡単に乗り移ってしまう現象がこの集団的転向、集団帰順現象です。福沢は、完全に第一流佐幕派であった強者が簡単に政府側に寝返り、しかもそこで出世してしまった連中を完全におちょくっているわけです。この怒りは『痩我慢の説』で噴出します。節を守るというのは福沢の生涯の信念だったのです。
(続く)

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