奥村一彦(19)私の好きな諭吉の文章(19)・・・41号

  「私の好きな諭吉の文章」(19) 

                                奥村一彦(80年経済卒)

 1 森鴎外と福沢諭吉との、医学上の交錯はあったのかを探っていたところ、陸軍軍医の鴎外と脚気の原因をめぐり激しく対立した海軍軍医高木兼寛が、明治14年5月慶應義塾医学所校長であった松山棟庵と成医会を創設し、翌15年有志共立東京病院なる施療病院を設立していました。松山は福澤家の医者でもあったので、福澤は脚気の原因について、松山から陸軍と海軍が激しく対立していることを聞いていたと思われます(『福沢諭吉辞典』578頁「松山棟庵」の項目。『脚気をなくした男高木兼寛』(松田誠。講談社)。

ところで最近、森鴎外記念会から「写真の中の鴎外 人生を刻む顔」というパンフレットが送られてきました。今年(2022年)が鴎外没後100年という区切りで、鴎外の人生の写真展を行うという企画の案内パンフレットです。その中に鴎外と諭吉先生が一緒に写っている写真があり、キャプションに「慶應義塾大学部で美学講師をつとめる」とあります。小堀佳一郎氏の『森鴎外』(ミネルヴァ書房)によると、鴎外は明治25年9月、新しく開設された慶應義塾大学の美学講座の審美学講師を嘱託され、小倉左遷の明治32年6月まで勤め、同月辞任している。そうすると、結構長い時間鴎外と諭吉先生は接触する機会はあり、脚気の原因についても話が出たのではないかと想像します。一方では、松山の海軍筋の脚気栄養不足説と、他方、鴎外から陸軍の病原菌説を聞き、海軍が脚気を克服していることを前提に、アドバイスを与えたのではないかとも思われるのですが、これは証明できません。鴎外が日露戦争後の1908年、臨時脚気調査会を立ち上げていますが、諭吉先生が生きている間に、脚気の原因をめぐる議論が慶應義塾で行われていたらなあとつくづく惜しみます。

2 さてそろそろ鴎外を去って福沢諭吉に戻りたいと思います。鴎外については小説、評論、軍事論など多岐にわたりますが、まずまず全体像は見えました。西欧を相手によく頑張ったと思います。諭吉先生と比べてどうかということになると、あまり大言壮語はできませんが、結論としては諭吉先生のほうが二倍も三倍も大きく見えます。

今、私の最大の関心事は明治14年の政変です。これは、井上毅が伊藤博文や岩倉具視を使嗾し、根拠のない大隈重信・福澤諭吉の陰謀論を企て、政府部内から大隈や三田派を追放し、政権を純粋な薩長政権に戻し、ドイツ流の君主権の強力な憲法を制定する道筋を作った事件です。

これまで出版された様々な明治憲法の制定までの研究書や福沢諭吉の影響のあった交詢社私擬憲法草案についての書籍をあれこれ読み漁っています。最近出た本で、慶應出身の久保田哲氏の『明治十四年の政変』(集英社、インターナショナル新書)というずばりそのものの書名の本を二度読みしています。都倉先生からも薦められました。当時のあらゆる文献を読みこなし、明治十四年の政変にいたる詳細な経過がわかります。

それ自体高度な中身の本ですが、私は、明治憲法がその13条で「天皇は陸海軍を統帥す」との条文が後に軍部を独走させ、ついには日本を崩壊させることになったと考えており、その観点での分析が必要と思っております。その意味では明治十四年の政変を詳しくたどりつつ、そこから明治憲法発布までの国内の世論形成に福沢諭吉がどの程度の影響があったのか、また、福沢諭吉のローレンツフォンシュタインとのやりとりはどのようなものであったのか、そしてそこから福澤の構想した憲法がいかに敗北したかを調べたいと思っております。これまで福澤の著作をたくさん読んできたのですが、研究としては端緒に過ぎないと思います。

今回はこれくらいの前置きとさせていただき、次回以降、研究の成果を発表したいと思います。

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