奥村15)私の好きな諭吉の文章(15)・・・37号

   「私の好きな諭吉の文章」(15) 

奥村一彦(80年経済卒)

 Ⅰ 「奴雁」と「雁奴」(平石直昭様へ)、その後。

 Ⅱ 福澤の国体論(国家論)

Ⅰ 「奴雁」と「雁奴」(平石直昭様へ)、その後。

前回の寄稿で、私の持っているカシオの電子辞書「Ex-word」の「デジタル大辞泉」の「雁奴」には「夜、砂州で休んでいる雁の群れの周囲で人や獣の接近を見張っている雁。転じて、見張り役。奴雁。◆「奴雁」としたのは福沢諭吉という説があるが、真偽不詳。」とあるので、小学館に問い合わせていましたが、その後、同社担当者から要旨以下のような回答が来ました。

*デジタル大辞泉の第2版(2001年版)から「雁奴」を採用して掲載した。デジタル大辞泉は常に更新しており、その項目は、ある高等学校の国語の先生が編集を担当していましたが、その先生は、今はお亡くなりになっている。原稿は残っていないので、福澤の記述のいきさつはわからない。「奴雁」という用語は福沢諭吉全集第19巻に記載がある。

そうすると、私はカシオ電子辞書のデジタル大辞泉の初版をかつて持っていて、おそらくそれには入っておらず、次に購入した同じカシオのレベルアップした電子辞書に入っていたということのようです。

それにしても、すごい先人がいるものです。おそらく福澤ファンのひとりではなかったかと察します。でないとここまで詳しい調査をすることはできないと思われるからです。

Ⅱ 福澤の国体論(国家論)

前回、福澤は「国体」という用語を「物を集めて之を全ふし他の物と区別すべき形を云ふなり」(『概略』巻之一 第二章。33頁)と定義したと指摘しました。これは、当時の皇学者流、国学者流の使用とは大きく違って、国体という用語を神聖政治的イデオロギーからではなく無宗教的な用法としてあえて提示したものと考えました。それは福澤の一種の戦略であり、また実態も反映していたと思います。戦略というのは、できるだけ専制政治に回帰しないように、つまり天皇に影響力を持たせないようにすることと、実態というのはそもそも明治初期には天皇の実権などはなかったし(福澤はこれを虚位といいました)、一方では開国により西欧の自由主義的考え方や人民の政治参加の波が押し寄せていたということです。そこで国体を「形」としてのみ把握するように定義したと考えました。

ところで、先日来読んでいるドイツの憲法学者ベッケンフェルデーの論文は、君主制原理の支配体制と現在のような国民主権による立憲政治の中間にある立憲君主政治は、これを過渡的形態とするか、独自の政治形式かという問いを建てている(『伝統社会と近代国家』(岩波書店)所集「19世紀ドイツ立憲君主制の国制類型」)。これが独自の政治形式であると言うためには、存続期間は問題ではなく、統一的な政治的形式原理の有無と独自の政治的正当性がなければならないという。

結論としては独自性を認めないのであるが、我が国の明治憲法政治と比較すると大変おもしろい。福澤はすでに天皇の権威など「虚位」と言っており、この点で明治憲法の君主制原理は、その権力の正当性は極めて根拠の弱いものであると福澤は見抜いていたと思われる。

またベッケンフェルデーは、ドイツ立憲君主制を分析して、君主は自ら憲法の制約を作り、それを受けて制約からは逃れられず、君主と国民代表は実質的に同権となり、その間で紛争が生じた場合は民主性原理と君主制原理が無媒介に対峙したこと、議会の予算権が君主制原理の対抗物となり「国民代表と国民代表に体現された民主性原理とに、展開の場と武器を与えた。」こと、大臣の答責性を通じて大臣に対し議会の実質的拘束力を強めたこと、の3点を指摘している。

これらの点を我国の明治立憲君主制にあてはめると、権力の正統性の根拠、予算審議の国会での激しい闘争、大臣の天皇への補弼による答責性など、ドイツから直輸入しただけに、非常によく似ているとともに、ドイツより政権の統一性が弱かった点がより際立っていると思われる。

すなわち、ドイツに比べて、我が国は近世以降は君主(天皇)政治の時代がほぼなかったため、その明治政権の正当性は脆弱で不完全であったから、従って、一方では急いで架空の神国の歴史を作り上げて無理矢理国民に刷り込ませなければならなかったし、明治維新を遂行した諸藩の権力が分立錯綜していたこと、他方では国民参加を少しづつ広げながらも、国民の政治参加や自由を犠牲にして、外国との戦争で国民統合を図らざるを得なかったことがよく理解できる。

ベッケンフェルデーはさらにおもしろいことに、君主制原理は民主性原理に蚕食されていくのであるが、「国家が「社会的団体」として基礎づけられ正当化された結果、君主制原理は解体されてゆくことになった」というのである。この「社会的団体」というのは国家法人説を生む概念といってよく、つまるところ国内的には被治者の同意で支配権力を基礎づけ、対外的には独立の体をなす団体なのである。

福澤の国体の定義は、どのような政体であっても通用する定義ではあるが、『文明論の概略』を出版した当時においては、将来、人民による権力の正当性の獲得と国家の神性イデオロギーからの解放を念頭に置いていたことは間違いないであろう。

そうすると、例えば政府が変転しても国家間の条約の履行義務があることなどを考えると、君主の統治権の相続などでは国家の義務の承継の説明はできないところからしても(相続者がいない場合を考えればよくわかる)、主権は国家に属するとする説明しかないことになる。この点で福澤の国体の定義は、国をベッケンフェルデーの「社会的団体」と見ているとすれば、現在でも通用する定義と思われる。それは国家法人説といってもよいと思われる。要するに、国民主権にしても、その他の主権論にしても、国民が「主権は天皇にある」と考えようとも「自分たちに主権がある」と考えようとも、それは皆がそう思って行動しているだけであり、法学的には、団体に属する主権を行使していると考えられるのである。この手の転倒的発想は政治上は常に必要だろうと思われるのである。

さらに深めたい。

(続く)

(奥村一彦:弁護士)

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