奥村14)私の好きな諭吉の文章(14)・・・36号

             「私の好きな諭吉の文章」(14) 

奥村一彦(80年経済卒)

 Ⅰ 第12回のつづき(福澤の憲法論)

 Ⅱ 「奴雁」と「雁奴」(平石直昭様へ)

1 前々回(12回)は、私独自の福澤の国体論、憲法論の解釈を述べました。そこでまず、その独自解釈の根拠を福澤の言によって論証します。

福澤が「国体」を「物を集めて之を全ふし他の物と区別すべき形を云ふなり」(『概略』巻之一 第二章。33頁)と非常に簡明かつ無機的な表現を採用したのは、もちろん福澤の戦略です。

というのは、『概略』巻之六 第十章(223頁)において「・・以て古に復せんとして、乃ち其教を脩め、神世の古に証拠を求めて国体論なるものを唱へ、此論を以て人心を維持せんことを企てたり。所謂皇学なるもの、是なり。此教も亦謂われなきに非ず。立君の国に於いて君主を奉尊し、行政の権を此君に附するは、固より事理の当然にして、政治上に於ても最も緊要なることなれば、尊皇の説決して、駁す可らずと雖も、彼の皇学者流は尚一歩を進めて、君主を奉尊するに、其奉尊する由縁を政治上の得失に求めずして、之を人民懐古の至上に帰し、其誤るの甚しきに至りては、君主をして虚位を擁せしむるも之を厭わず、実を忘れて挙を悦ぶの弊なきを得ず」と述べているとおり、君主に「行政の権」すなわち統治する権能を付与することは政治の世界として当然であるが、それ以上に「神世の古」=鎌倉より以前の王室(すなわち歴史上存在が確証できない神話まで遡る王室=虚位)に奉尊の根拠を求めるのは、「君主をして虚位を擁せしむる」ことを悦ぶことだと、批判しているからです。そして「日本国民として之を奉尊するは、固より当務の職分なれども、人民と王室との間に有るものは、唯政治上の関係のみ」と厳しく線を引きます。

福澤は、君主(この場合、新しく君主に祭り上げられた明治天皇)に行政の権能を付与するのは世界各国で行われており、これ自体は何も特別なことではないが、皇学者流は人心を把握するために「人民懐古の至上」持ち出し、「虚位」をむりやり造るのは、人心を得るには無理もあり問題もあると言っているのです。従って、福澤の「国体」の定義は、政治から神話を根拠にした宗教的要素を漂白してしまおうとする目的で案出されたものです。そうすると君主は行政権、主権は国家という考えと非常に親近性を帯びてきます。そこで、私はこれを国家法人説の走りと読んでもいいと思う訳です。福澤の説も国家法人説も国を誤らせないための装置でもあったのです。

こうしてみると、福澤の『帝室論』、『尊王論』及び「交詢社私擬憲法草案」の「第一条 天皇ハ宰相並ニ元老院國會院ノ立法兩院ニ依テ國を統治ス」という天皇の権限委譲の宣言文がいかにわが国にとって重要であったかを知ることができます。

福澤の杞憂は、しかし、現実に杞憂となったことで証明されてしまいました。

2 今年9月10日発売された坂野潤治さんの『明治憲法史』(ちくま新書)は、福澤グループの発表した「交詢社私擬憲法草案」が明治政府を震撼せしめた経過が非常にわかりやすくかつ説得的に書かれています。この本を是非広めたいと思っております。また、この「草案」が発端となって明治14年8月31日の大隈重信追放、三田派放逐という大政変が起こったという極めて重大な歴史的意義があったことを改めて深く印象づけられました。また、自由主義者としての福澤グループの位置も明確になりました。私自身も、福澤が如何に重要な提言を日本社会にしたのかを勉強したいと思いました。歴史は常に読み返されなければならないと痛感しました。坂野潤治さんは今年10月14日逝去されました。もっともっと福澤について書いて欲しかったです。合掌。

坂野潤治さんがこの本で言っている当時の政治的構図は、保守派(薩長派)と民主主義派(民撰議員設立建白書派)に割って入った自由主義派が福澤という構図です。というのは、薩長派と民主主義派は、決定的対立状況にあり、相交わることはないところに、「議院内閣制」という議会と政府を交流させる憲法案が出されたという衝撃です。これにより国民から選ばれた議員が政権を担当するという民主主義国家が出現する道筋が示されたのです。例えば「第一三条 内閣宰相タルモノハ元老院議員若しくは国会議員ニ限ルベシ」として、議員から首相ほか大臣が選ばれることを定めているのです。

政変は、大隈重信が秘密裏に有栖川大臣らを通じて「国会開設奏議」を天皇に見せたことが、井上毅と伊藤博文の怒りを買い、おそらく大隈の行為は組織的行為だとの猜疑心を大いに働かせ、そこでいわばクーデター的に大隈派と福澤派を政府部内から放逐することを計画したことで発生したのです。これが明治政権をして一挙に先進的から反動的に変化させてしまったのです。大隈がそのような行為をしなければ起こらなかったのかと言えば、いつかは同じ反動期が来たでしょう。といいますのは、坂野さんも述べているとおり、政府のドイツ系憲法観は1872年木戸孝允の米欧回覧中の日記に木戸が将来の憲法をドイツ系憲法を目標にするという決意からすでに発しており、いわば既定路線でもあったからです。

 

Ⅱ 「奴雁」と「雁奴」(平石直昭様へ)

福澤手帖186号に平石直昭東京大学名誉教授の『「奴雁」と「雁奴」』の表題で、大変おもしろい記事があり、楽しく読ませてもらいました。わずかな言葉使いの違いのようにも見えますが、やはり福澤が使用した言葉の本来の意味や姿を追及するのは愉しいことだなと羨ましく読み終えたのです。

ところがです。

読み終えたついでに、私の持っているカシオの電子辞書「Ex-word」の「デジタル大辞泉」で、項目としてはないはずの「奴雁」を引いたところ、入っており、「雁奴」を見よとの案内があり、さらに「雁奴」をみると「夜、砂州で休んでいる雁の群れの周囲で人や獣の接近を見張っている雁。転じて、見張り役。奴雁。」とあり、以下のような説明が加えられているのです。

「◆「奴雁」としたのは福沢諭吉という説があるが、真偽不詳。」

とすると、真偽不詳なりにも、すでに福澤が転倒させて使用していたらしいことは知られていることになります。平石さんが、さんざん悩んで伊藤彌彦さんのご援助を得てようやく正解にたどり着いたその努力はすでに行われていたようです。

早速、小学館に電話をしてみました。誰がそこまで調べたのか問い合わせをしました。まだ回答は得られていません。この電子辞書はかれこれ20年以上前の購入のはずなので、一体誰が知っていたのか、興味のあるところです。引き続き追及してみるつもりです。        以上

(奥村一彦:弁護士)

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