奥村2)私の好きな諭吉の文章(3)・・・(24号)

「私の好きな諭吉の文章」(3)
奥村一彦(80年経済卒)

今回は誇り高き福沢諭吉を、諭吉自身が表現した文章で紹介します。元来、福沢諭吉という人は文章においても誠に謙虚な人で、偉そうに自分を書くことはまずありません。私がはじめて諭吉の謙虚さに感心したのは『西洋旅案内』(慶応3年丁卯八月-ひのとう8月-初冬のこと)の「序」において、次のように書いているのを読んだときです。

「固よりこの冊子は外国のことを更に弁へざる人の為に綴りたるものにて、その意味浅ければ、彼の国の書を読み、又はこの国へ渡りて物事に明るき人は、これを見るともおもしろくもなく無益のことなり。余が本意とても実は世間にかかる博識の多くなりて、この冊子などを見る人のなきこそ願ふ所なれ」                      『西洋旅案内 序』

まるで自分の本が早く役に立たなくなるように心から願うような書き方をしていることです。しかし、本を出版するのも、外国に行くのも、その機会に例外的恵まれた人だけが可能であった時代に、ここまで謙虚に自分の本を紹介するのも珍しいと思います。それゆえ私はこの文章も好きなのです。
だからこそ、誇り高き文章が現れると私などは、よほど自信をもって書いたのだなと思ってしまうのです。

1 まずは私の一番好きなものから紹介します。

「人の世を渡るは、猶船に乗って海を渡るが如し。船中の人、固より船と共に運動を与にすと雖も、動もすれば自ら運動の遅速方向に心付かざること多し。唯、岸上より望観する者にして、始めて其の精密なる趣を知る可し。中津の旧藩士も藩と共に運動するものなれども、或は藩中に居て却て自ら其動く所の趣に心付かず、不知不識、以て今日に至りし者も多し。独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば、望観するところ、或いは藩中の士族よりも精密ならんと思ひ、聊か其望観のままを記したるのみ」                   『旧藩情 緒言』

出だしから名文です。音節も5あるいは7音節が中心で、声に出すとリズムがいいことがわかります。口語的漢文調とでもいうのでしょうか。意味も明瞭です。比喩も的確です。人は社会の滔々とした流れの中で、自分の位置がわからなくなることがあります。人生を、大海を渡る船に例えるのはギリシアの哲学者も言いました。すごいのはその後の展開です。「船と共に運動を与にすと雖も、動もすれば自ら運動の遅速方向に心付かざること多し」と。なるほどその通りだ、と頷いてしまいます。読む方は、はっとして虚を突かれたような気になります。そして不動の岸の上からみている者だけが精密なる社会の動きがわかるのだと言った後で、「独り余輩は所謂藩の岸上に立つ者なれば」と続けます。つまり、中津藩ではオレ独りだけがモノゴトを分かっていたのだと言うわけです。明治10年の福沢諭吉、43才、『学問のすすめ』、『文明論の概略』を書き終え、社会に重きをなした時の自己認識だったのでしょう。

2 次は『福沢全集』からとります。

「兎に角に、日本が旧物破壊、新物輸入の大活劇を演じたるは、即ち開国四十年のことにして、其間の筋書きと為り台帳と為り、全国民をして自由改進の舞台に新様の舞を舞はしめたるもの多き中に就いて、余が著訳書も亦、自ら其一部分を占めたりと云うも敢えて疚しからず、余の放言して憚らざる所なり。」                    『福沢全集 緒言』

誇り方はやや謙虚で「敢えて疚しからず」というのですが、本心はよほど誇らしかったでしょう。この疚しからずという言い方も、いつか自分も使いたいなあと妄想します。
福沢諭吉は幸福な人で、人生の終わり近くに(終わりがいつ来るか誰にも分からないので、偶然のことになりますが)、2度自分を振り返る機会を得ました。一度目は『福沢全集』(明治30年脱稿)の出版時に書いた『福沢全集 緒言』です。単独で出版しました。福沢が過去に出版したたくさんの著訳書について、それを江湖に問うた意図を解説しながら、出版当時の社会状況や反応などを回想しています。2度目が『福翁自伝』(明治31年)です。福沢諭吉も両方を自伝と言っています。
ところで、『福翁自伝』については、その底抜けの明るさとおもしろさ、江戸から明治への時代の変遷を直に経験した見聞録として貴重なものです。
私は『福翁自伝』が好きで、何度も読み返します。そこで、いろいろ考えることがあるのです。といいますのは、まず文体の問題です、次に福沢が、たぶんあえて書かなかったことの問題です。特に後者は、福沢に興味を持つ者にとって誠に心残りなのです。3つ挙げます。一つ目は、憲法制定に際し民間憲法として交詢社案をどのように起草したか、二つ目は、朝鮮の改革に並以上に入れ込んだこと、その帰結として挫折したことの体験、三つ目は、明治教育体制に対する直接の批判と感想、それと『修身要領』に傾注したエネルギー、この3つが書かれていないことです。一番最後の教育に関する明治政府への批判は多少文章として残されていますが、福沢らしい正面から教育方針を問うた明快なものはないように思うのです。
憲法、朝鮮、教育、どれも福沢の人生では重要な働きかけの対象であったはずですが、これが二つの自伝にほとんど触れられていないのです。いったい何故なのでしょうか。まだ私には分かりません。人生の残り時間で研究をしたいと思います。
そこで、文体の問題についえ少し考えを述べておきたいと思います。
文体は、文章を書く技術ではなく、何かをどう伝えたいかによって自ずと決まるものと考えます。福沢の文体は、漢文のリズムを保存し、五七調で読みやすく、比喩を交えて分かりやすく、そして上述の『旧藩情』のような品格のある文章がほとんどです。時局論でもその姿勢は失われていません。ところがこの『福翁自伝』だけは、それ以外のものとまったく別物なのです。
これをイタズラ好きな福沢の面目を出すためのひとつの方法と見ることも可能だと思います。しかし、私には、他とあまりにも違いすぎるので、何か福沢に変化でもあったのではないかと強く思ってしまうのです。文体はおそらく内心を表すのだと思っています。そうすると、『福翁自伝』の口語調のしかも相当崩れた口調は、福沢をして徹底的に自己破壊を試みたのではないかと思うのです。もちろん、「老余の半生」などはもとの福沢が回復している気配がありますが、それを除けば、世間に対し、できあがった偶像を壊す目的で、福沢のような人生の成功者などと言われる人でも、皮をむけば、人は誰でもこんな人生を歩むものだとのメッセージを残そうとしたのではないかと思われるのです、その証拠に『福翁自伝』の全編を貫くものは「独立心」の形成にかかるものと言っても過言ではないからです。「独立心」なるものが、神仏の存在に疑問を持つとか、奥平に対する反発とかから生じるというような、普通の人の持つ日常の経験が大事だと言っているように見えます。私のこの考えもまだ十分深められていないので、これ以上は展開ができないのですが、やはり人生を回顧するという機会を利用して、強固な目的、すなわち「独立心」をどう形成するかの模範演技を演じたように思えてならないのです。

3 最後に『読倫理教科書』を挙げます。

「然るに今、倫理教科書は文部省撰とあり。省中何人の手に成りしや。其人は果たして完全高徳の人物にして、私徳公徳に欠くる所なく、以て天下衆人の尊信を博するに足るべきや。諭吉においては、文部省中に斯かる人物ある可きを信ぜざるのみならず、日本国中に其有無を疑う者なり」                            『読倫理教科書』

これは、明治20年、当時の文部大臣森有礼が福沢に国による倫理教科書の編纂について意見を聞いてきたときに返した手紙です。それを明治23年3月、今度は榎本文部大臣が儒教主義を唱えて倫理教科書を作るという方針を出したので、敢えてそれに反論するため、3年前に出した手紙を時事新報に掲載した経過があります。
簡単に要約すると、要するに政府という立場では倫理を固定してはならないということでしょう。従って、国というものは本来倫理教科書なるものを作ってはならないと断言したわけです。この手紙が時事新報に掲載された7ヶ月後の平成23年10月「教育勅語」が出されていますので、このタイミングで掲載したことは誠に重要な意義をもっていたことは改めて知っておいた方がよいと思います。
また批判の仕方がいいですよね。文部省中に高徳の者はいないというのですから、たいした批判です。福沢に言われたら誰も恐れ入ったはずなのですが、この時期井上毅らが、福沢の意図に反して「教育勅語」を推敲していたのですから、福沢はよほど腹に据えかねていたのではないかと思います。

次は、福沢のイタズラ文章を紹介します。これまた抱腹絶倒です。        (続)
* 奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所

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