シューベルト~その深遠なる歌曲の世界~3-②・・・(32号)

 「シューベルトは、歌曲製作に際し、真剣に歌詞を探し、また選んだのである。そして、その基となっているのは、彼の教養、つまり、大学教育は受けていなくても、文学、歴史、哲学の書を読みあさり、彼の友人達である、芸術家や知識人との交流で自分自身の精神を築き上げていった、その教養なのである。彼の音楽は、言い換えれば、そういった彼の精神と天性の感性により、創り出されたものであるといえるであろう。」

上記(「3-1」参照)に述べたように、彼の精神性を築いたと考えられる要素の一つ、友人達との関係について考えてみたい。

*シューベルティアーデ

 シューベルトを中心として、彼の友人達である詩人、画家、学者などが集まりシューベルトの歌曲やピアノ曲の演奏を楽しみながら、さまざまなゲームや会話に興ずるサークルが存在した。
これをシューベルティアーデ(シューベルトを囲む音楽の夕べ)という。

 最初のシューベルティアーデは、1821年1月3日にショーバーの家で開かれ、以後シューベルトのパトロンとなる様々な学者、政治家、貴族のサロンを会場として開催されている。このシューベルティアーデでは、音楽だけでなく歴史や政治問題まで話し合われたことが分かっている。

一般的にシューベルトは思想や政治とは全く無関係であり、無関心(無知)であったと考えられているが、彼の親しい友人達をはじめとして、シューベルティアーデに参加している人々や、シューベルトが関係した事件などを考慮すれば、音楽家としてのシューベルトは、たとえ自分の意思で思想や政治問題を学ぶことをしなかったとしても、友人達を通して、またシューベルティアーデや「ルートラム洞」(注1)などでの会話などから、当時の最新の知識を得ていたとことは充分に推察することができる。

シューベルトは、政治的にも友人のゼンが起こした事件(注2)に巻き込まれ、以後警察のブラックリストに載せられている。

 ゲオルク・R・マレクが言及した1829年9月15日の記録では、ウィーンの警察署長ゼードルニツキー伯爵が皇帝に対して、長年学校教育に携わってきたことを讃えて、フランツ・シューベルトの父親に金メダルを授与しようという計画を、止める様に提言している。
このことは、当時の反動的国家体制にとって不穏に思えたシューベルトの政治的態度が、父親の出世の障害となった例としてみることができる。

 シューベルトの親しい友人達の中には作家や詩人が多く、バウエルンフェルト(喜劇作家)、クーペンヴィーザー(兄は劇作家、弟は画家)、マイアーホーファ(詩人、心気症から自殺をした)、ショーバー(画家、作家、俳優)、シュヴィント(画家)、ゾンライトナー(法律家)、シュパウン(兄は国家官吏、弟は歴史と文学の研究者でオーストリア民謡の収集家)、ゼン(詩人)、ブルッフマン(哲学者)、フォーグル(法律家、歌手・・・ハイ・バリトン)、などシューベルトの伝記によく登場してくる人物がいる。
シューベルトの友人・知人たちは多く、その殆どが芸術家であれ官吏であれ、ドイツの知識階級の人々である。
シューベルトの音楽は、そういった友人達との生活や交流で大いに刺激を受け、彼等からいろいろな知識を得たことは疑いようがない。

 当時の文学の世界に君臨していた巨人ゲーテやシラー。そしてカントの哲学(1790年代には全てのドイツの大学でカント哲学が講ぜられ、カント哲学は当代ドイツの一般教養となっていたから、シェリングのロマン主義哲学に至る過程は、シューベルトが意識しようとしまいと、それはドイツの文化として、また当時のドイツの精神として、彼の家族と友人達と同じように、シューベルトの心の奥深くに影響を与えていたと考えられる。
思想とは、意識しているから思想なのではなく、無意識の中でもその文化の中で生きている限り、我々は常にその影響の中で生活し考えているものである。(注3)
シューベルトの音楽もまた、ゲーテやシラー、カントやシェリングの思想と合致する点が認められるかもしれない。

 シューベルトは、音楽史的にいえば古典派とロマン派のあいだに位置し、中川牧三先生の話では、演奏の時技術的には古典派として、精神的にはロマン派として演奏するように、と教わった。

 シューベルトの交友関係を調べてみると、シューベルティアーデに代表される友人達の影響が大きいと考えられるため、ゲーテ時代の文学思想潮流と、カントからシェリングに至るドイツ知識人の思想は把握しておく必要があるのではないかと考えるに至った。         (続)
(元声楽研究家:杉本知瑛子ピアノ声楽研究所)

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(注1)「ルートラム洞」
 1816年頃結成された詩人、音楽家、画家、学者など、ウィーンの知識人による夕食会のグループ。
この集会には、ベートーヴェン、ウェーバー、サリエリ、グリルパルツァー、リュッケルトなども参加していた。シューベルトも所属していたが、1826年4月誤解が元で警察に摘発され解散したのだが、シューベルトもその時逮捕されかかっている。

(注2)「友人ゼンの起こした事件」
 1820年春、シューベルトの友人ゼン(詩人)が、学生集会において官憲の捜索に際して、自分の書類に触れさせようとしなかった時、そこに居合わせたシューベルトが名誉毀損だと騒いだので、反国家的行為のかどで逮捕された。
彼はすぐ釈放されたが、ゼンは禁固14ヶ月の罰となった。
シューベルトはその後、ゼンとは再会しなかったが、二人が連絡を取り合っていたことは、ゼンの詩による『幸福の世界』“Selige Welt”(D.743)、『白鳥の歌』“Schuwanengesang”(D.744)の2つのリートがあることで明らかである。(1822年に作曲)

(注3)「無意識の中での思想の影響について」
 V.Belliniが、歌曲『Vaga luna』を作曲したとき、彼(ベッリーニ)は自らの伝記の中で、その曲は故郷シチリアの古い歌謡(子守唄)の旋律を使ったとのべている。しかしこの旋律はシチリアのメロディーではなく、古代フェニキアのメロディーであることが判明している。
40年近く前、当時のイタリアローマ市長の研究により発表された。(地方史研究をしていたローマ市長が、バチカンの宝物殿の中にあった古いフェニキアの楽譜を見つけ、それが『Vaga luna』の旋律であったことを発見。:バチカンの宝物殿は学者であろうと立ち入れない場所なので、学者による研究発表はない)。
この発表は、当地での国際音楽コンクール審査員との晩餐会で談話として発表された。
(ローマ市長の隣席におられた中川牧三氏との雑談より)

これは、1800年代のシチリアで紀元前数世紀のフェニキアによる占領の影響が、無意識の内に自国の文化として(Belliniの中に)存在していたという、無意識の中での文化の影響の例である。

                      杉本知瑛子(97、文・美(音楽)卒)

                         

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