ソフィアさんちのチルちゃんと僕(65)~天才と凡人(5-5)~

「きれいなお空になってきたよ。また観音様が来られるのかなあ」

「またお会いしたいわね。」

天才と凡人(5-5)

《5、すぐに洗脳されてしまう単純頭脳の持ち主である私はそのまま納得して、“天才というのは自分の持つ基礎知識をどのように組み立てて使うか、だけで決まることなのだ。それで、無知か又は知識のみで応用力の乏しいような人が天才という言葉をつくるのだ”と思うことにした。

しかしその後(10年くらい後だったろうか)、「人間とは何か」という先生の講義で基礎知識の応用(組み立て方)というのが、いかに凡人にとって困難なことなのかを知ることになるのであるが。

音楽の世界では才能と言う言葉がよく使われる。ピアニスト、バイオリニスト、オペラ歌手・・・特殊な演奏技術を必要とするものは、高額な楽器と幼少時よりの個人レッスン受講という現代でも一般人には高いハードルがある。ピアノなどはバイエル(初級用教材)が両手弾けるだけで一般の人は“すごい!”と言いソナタなぞ弾こうものならもう大天才であった、そんな時代が昭和にさえあったのである。敗戦後、寄せ集めの楽団でオペラをやっても、オペラというものを見たことも聞いたこともない人々にとっては、一流音楽家によるオペラ公演と同じようなものであった筈である。

他の人から見て天才とは多くの場合そのようなものかもしれない。

福澤先生が初めて白石先生のところで漢学を学んだ時の凄まじい勉強量は天才的なものであったといえるであろう。しかしそのようなことは慶應の先生方でも出来る方はやっておられる。

自分の周りの人々にとって出来ないことができるだけで、天才であるのか?努力さえすれば天才に近づけるのか?エジソンの言う“1%のひらめき”これはそれこそ血の滲むような努力の連続があって初めて生じる可能性があるものであろうし、まさしく“1%のひらめき”は“神の降臨”と言えるものであろう。

イタリアではオペラのプリマドンナは“Diva”(女神:日本語訳では歌姫)と呼ばれている。

音楽における天才とは、神の国(異次元世界)に遊ぶ(存在する)者(天女・天使)なのである。

(続)》

 

写真上:宮川直遠氏撮影「花粉光環」

写真下:宮川直遠氏撮影「光芒」

以上2点は「緑の環境委員会」より

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