奥村一彦:45号:私の好きな諭吉の文章(23)

      「私の好きな諭吉の文章」(23) 

                                奥村一彦(80年経済卒)

『学問のすゝめ』初編発刊150年を記念して

 

1 『学問のすゝめ』第六編と第七編について

福澤諭吉は、明治7年(1875年)2月、『学問のすゝめ』第六編として「国法の貴きを論ず」を刊行しました。また、その翌月第七編「国民の職分を論ず」を刊行します。

この2編は、当時「楠公権助論」として非難炎上し、そのため福澤は「学問のすゝめの評」として弁明せざるを得ませんでした(筆名はこれまた福澤らしく「五九楼仙万」(ごくろうせんばん)などと韜晦・おちょくりが入っています。)。いったい何が世間の気に障ったかと言えば、赤穂の義士は不義士である(第六編)、討ち死に・敵討ちの忠臣義士も旦那への申し訳に首つりした権助と変わらない(第七編)と言い切った点なのです。古来、敵討ちや復讐の鑑である忠臣蔵の主人のための復讐と湊川で討ち死にした楠木正成は、己が主人に一命を投じたという美談を徹底的に破壊してしまったのです。

 

2 では、福澤が何故この時期に、このようなそれまで培われてきた従来の価値観(君臣の儀)を破壊する文章を書いたかといえば、理由は二つあります。ひとつは、明治6年2月3日に太政官37号として出された「復讐を厳禁ス」という単行の法令です。もうひとつは福澤の終生の課題であった「封建的モラル・タイ」の一掃と新モラルである「報国心」の涵養の意図です。

明治政府は、維新後、非常な勢いで国家体制を構築してゆきます。その大きな成果のひとつは明治4年に制定した「戸籍法」とそれに基づく翌明治5年の「壬申戸籍」の成立です。これにより全国民が把握されるという統一国家の基礎が築かれました。もうひとつは刑法典に繋がる新律綱領(明治3年12月)・改定律令(明治6年5月)の制定です。刑法の整備は、藩を解体した後の統一された政府による暴力・武力(捜査権、裁判権)の独占で、正当防衛などの例外を除き、すべて国だけが暴力・武力を持つという体制が正当化されます。「復讐を厳禁ス」もその流れの中にあります。敵討ちは幕府の許可で認められていました。実例として、森鴎外の小説『護持院原の敵討』などで知ることができます。これを認めないと宣言したのです。直接には暴力の独占の宣言ですが、福澤はここから、二つ目の理由の、国民国家を目指す中で、封建制度の忠臣義士論の弊害を指摘します。

封建時代の身分関係は詳細多岐に分割され、『旧藩情』でも幕末の中津藩では士族1500人の身分が100以上(「百余級」)の階級に分かれていたといいます。また例えば、『徳川制度』(岩波文庫)によりますと、伝馬町の牢屋内でさえ、「牢名主」を名乗る者がいて、「牢名主は大統領にして、賞罰の権を掌握し」と牢内の規律を執り行い「しかしてこの一小天地は、牢役人といえどもよく知る者あるなし」という身分の上下意識が「制度」として行き渡っていようです(以上『徳川制度 上』より)。

時代劇でも、牢名主は畳を10枚ほど高く布いたところにいて、牢内を支配しており、次が次席、三席などといって、上下の身分が存在し、そして、牢名主によって刑罰を加えることも黙認されていたようです。

徳川時代にこのような上下の身分意識が動かしがたく存在していたのは、名分論が大きな役割を果たしていました。簡単に言うと、下の者は直接の上司に支配されるものと心得ており、その関係は絶対に変わらないと信じており、常に上には忠誠を誓わなければならないとされる強固な身分固定の思想で固められていたのです。そうすると忠誠を誓う相手はまず直接の上の者に対してということになり、この間でしか信義が守られないものとなります。ましてや国や全体のことをかまう心情など育ちようがありません。それが国の独立を支える心すなわち報国心の涵養に大きな障害をもたらしていると福澤は診断した訳です。

 

3 ではどうやって報国心を形成するかというと、ひとつは、福澤は文明の教育に精力を尽くことでそれが可能と考えたのです。それが、子供用教科書となり、慶應義塾となり、演説の普及に繋がっていくのです。

しかし、事はそうゆったりとしていられません。すぐそこに文明国から来た軍事力が正に今襲いかかろうとしていたからです。では急場をどう凌ぐか、それが大問題として福澤の正面に立ち現れます。『文明論の概略』の第十章で、我々が総体として文明化するのが先か、まず独立を維持するのを喫緊の課題として急場のしのぎを目的とするの選択となって現れています。

 

4 そこで福澤は考えます。かつて否定したところの封建的忠誠心を変形して再利用することで、国の独立に資するよう用いるという作戦を練ります。すなわち国会を成立させて、選挙された国会議員をして国事の議論にあたらせ、また、政党を結成させ、その首領により政府を形成するという政党内閣制を構築することでした。さらに、このような国家的な事業を創出し、同時に民間には産業を育成し、かつ各地に学校を立てさせるという大事業を提案します。

 

5 話しは飛びますが、それが健常に実行されようとする正にその時に、伊藤博文、井上毅らによって明治14年10月、いわゆる明治14年の政変に巻き込まれてしまいます。

日本史はここから暗黒史となったと言って良いと思います。福澤においては「一身独立して一国独立す」のスローガンこそ最後まで高く掲げられたのですが、一身独立が、教育勅語の天皇崇拝によって葬り去られ、また、福澤の死後ですが、大日本国憲法の解釈として、天皇自身が神であるという穂積八束流の狂信的憲法論が蔓延し(西洋で言えば中世の考え方)、わずかに美濃部達吉が国家法人説(いわゆる天皇機関説)を講じてわが国を文明化するのに努力をしたけれど、憲法学者上杉慎吉に身体を傷害する恐れも含む攻撃にさらされ、天皇機関説事件というこれまた近代憲法に無理解極まる天皇主義者に、個人の独立が摘み取られる歴史を歩みました。

福澤の理想は未だ実現していないと言えそうです。

 

6 話しを最初にもどします。福澤が「国法の貴き」を論じたのが、明治7年で、この後『文明論の概略』の執筆に入るのですが、おそらく福澤の中には外国の文献も読みこなし、文明化の具体的方策を世間に示さなければならないという切迫感が充満していたことでしょう。

その前に考えたいのが、何故福澤は明治の藩閥政府と言われた軍事独裁政権の出す法令が「貴き」と考えたのか、法の正当性をどこに置こうとしたのか、第七編では人民が政府を作る(いわゆる社会契約説)というところに政府の存在の正当性をおいているのに、藩閥政府の法を遵守せよとの提言がなぜ正当なのか、という法の近代性にかかる諸論点です。次回までに考えたいと思っております。

 

(続く)

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