奥村8)私の好きな諭吉の文章(7)・・・28号

                                            「私の好きな諭吉の文章」(7)

                                                                                          奥村一彦(80年経済卒)

1 前回は、『痩せ我慢の説』について論じました。今回はその続きです。

福沢は、私情が公徳心に転換するその軸になるモメントを「痩せ我慢」とします。平生の国交際において大国に挟まれた小国が国を維持し栄誉を保とうとする場合、国の勢いが衰勢、廃滅に至ろうとする場合になお地歩の維持をしようとするとき、この痩せ我慢が必要というのです。その痩せ我慢を発揮したとき、私情が公徳に転換を遂げるというのです。

個人的には、百戦必敗、死に至ること確実な場合に、その時こそ闘えというこの福沢の呼びかけには、心から感動します。闘って負けることははじめからわかっているところ、その集団の士気を千万年先までも維持せんがためには今は闘えと言います。この集団エゴイズムが、衰勢に及んで必要というわけで、言われてみれば、誠に「不思議なれ」と思わずにはいられません。福沢も『冷淡なる数理より論ずるときは、殆ど児戯に等し』とその価値を徹底的に低く見ていることを認めた上で、それが最上の美徳となるのが、文野の変遷を問わず『痩せ我慢は立国の大本』となると大転換をはかります。

2 では世界史的に福沢のこの宣言は証明されるのでしょうか。残念ながら私は歴史を専門にするものではないので、直ちにこれが歴史上の証明であるというものを直ちにいくつも挙げることはできません。

ただ、まったく最近、人に頼まれて少し話をする機会があり、そのテーマに関する文献をあれこれ漁っている最中に、福沢と同じ考えを持っている文章に出会ったのです。それは1871年5月30日に公表された論文、福沢とまさに同時代にフランスで起こったいわゆる「パリコミューン」(1871年3月18日から5月28日まで続いたパリでの労働者を中心とする国民軍の戦い)を生きている同時代史としてマルクスによって書かれた論文に次のような一節があるのです。

『 いまパリはボルドーの反逆的な奴隷所有者たちの侮辱的な命令に従ってその武器を捨て、パリの9月4日の革命は権力をルイ・ボナパルトの手から彼の競争者たる王党諸派の手に移す意味しか持っていなかったということを承認するか、それともフランスの自己犠牲的な戦士として立ち現れるか、どちらかにしなければならないのであった 』(「フランスの内乱」マルクス著、1871年5月30日公表。国民文庫版)

少し歴史的背景を解説しますと、ボルドーというのは、ルイ・ボナパルトが普仏戦争で負けて幽閉された後(これが1870年9月4日のこと。帝政が倒れたことを革命と呼んでいます。)、さらにパリに迫り来るプロイセン軍を目の前にパリから逃げ出してボルドーで作った政権(これが奴隷所有者で王党諸派のこと。奴隷所有者という表現はローマ時代の権力者が奴隷所有者であったことに由来する言葉です。)のことです。プロイセン軍は、パリを占領しようと迫ってきたのですが、今度はボルドーの政権が、こともあろうにプロイセン軍の圧迫を利用して、パリの皆がパリを守るために自らが武装していたその武装解除を目論んだのです。それに対して、パリの民衆が、権力の正統性を主張する王党諸派連合と2ヶ月間にわたり死闘を演じたのがパリコミューンという闘いです。パリの自治という意味でしょう。ボルドー政権はパリを武装解除させた後、プロイセン軍と手打ちをする算段だったのです。武装されたパリは王党諸派にとって迷惑な存在だったのでしょう。

無論、パリは蜂起します。まさに死闘で、記録によると戦闘死亡と戦闘後銃殺が3万人、後の軍法会議で子供婦人を含め死刑270人、無期徒刑410人、要塞流刑4016人、普通流刑3507人、禁固及び懲役1333人、国外追放322人、拘禁8407人、というものすごい数の犠牲者でこれを死屍累々というのでしょう。

プロイセン軍に屈するぐらいなら、そのプロイセンの手先として内乱を仕掛けてきた政権軍には断固として闘うという姿勢を貫いた歴史上の証明がここにあると思います。これも福沢流にいえば「痩せ我慢」の賜でしょう。

3 さて、この『痩せ我慢の説』が書かれたのは明治24年です。執筆の動機は、これがまたおもしろいのです。幕末に清水港で官軍に殺された幕府の海軍を祀った清見寺に、後年、海軍だった榎本が碑文を寄せ、その肩書きに明治政府の官職を書くという失態を演じたのです。それを福沢がたまたま見とがめてこの『痩せ我慢の説』を書く動機になったといういきさつがあります。その清見寺に遺体を集めて葬ったのが博徒の親分清水次郎長なのです。私は清水次郎長に感謝します。また、榎本にはいくら感謝してもしきれません。福沢をして、こんなおもしろい文章を書かせる動機を作ったのですから。

では、その明治24年時点で、福沢は痩せ我慢をしないことによる士人の気風が堕落した現実をどうとらえていたのでしょうか。

これは大変難しい課題で、次回に回します。

* 奥村一彦:弁護士、京都第一法律事務所

 

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