杉本知瑛子:52号「福澤諭吉と中川牧三(3)」

「~福沢諭吉と中川牧三~(3)」

           杉本 知瑛子(H.9 文(美・音)卒)

中川牧三先生  福沢諭吉先生

 

            近衛秀麿氏

中川牧三・河合隼雄 共著出版本

前回51号では福沢先生と中川先生の天才比較の論考をおおざっぱに述べたのですが、あまり一般人には馴染みのない中川先生や音楽の世界の話では、果たしてこれらの文を読んで頂けるか全く自信がない、ということでチルちゃんとクーちゃんという子ネコ達にこのシリーズの案内をしてもらうことにしました。この中に登場するソフィアさんとは、私のハンドルネームでこの中で述べられているエピソードは全て中川先生から直接伺ったお話です。チルちゃんがクーちゃんにソフィアさんの論考のメモを読んでとせがまれました。でもそれは子ネコには難しく・・・・・

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「さあ、クーちゃん今度はたくさんの枚数があるわよ。大丈夫かな?」

「むずかしいの?」

「大丈夫よ。むずかしい専門用語は出てこないみたいだし、物語を聞くようなつもりで聞けばいいわ。だって、このお話の主人公中川牧三さんは、ソフィアさんの先生だった方なのよ。ソフィアさんが、知りたがったことなら何でも丁寧に教えてくださった、ともう亡くなられた今でもソフィアさんにとっては、一番信頼できる先生みたい。」

「それでメモもたくさんの枚数になっているんだ。でも、お弟子にいちいちそんなにたくさん話をしてくれるなんて、お年寄りなのに疲れなかったのかなあ」

「ソフィアさんが師事していた時は、京都の大きな家を出られて、後に奥様となられた方の芦屋のご実家におられたので、その頃定期的に通っていたのは、古い子飼いのお弟子さんが一人とソフィアさんだけだったのよ。奥様となられた方は、ソフィアさんと同じ五十嵐喜芳という声楽家のお弟子さんで、ソフィアさんの一年後輩なの。で、レッスン終了後はいつも先生と3人でお茶を頂きながらおしゃべりをしていたみたいよ。」

「だからいろんなエピソードがソフィアさんの体験からもたくさん書いてあるんだね。楽しみだなあ。」

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《1 「天才とは天性の才能である。」(広辞苑より)

結果だけを見て、凡人には想像も出来ないことを成し遂げる人間を私達は単純に天才と呼んでしまう。

「シューベルトは梅毒の病魔が脳を侵し、その正常と異常の狭間で『冬の旅』が作曲された。天才と狂気が作り上げた作品をどのようにして解明できるのか?解明?それは無駄なことである。・・・」と長い間(現代の医学でシューベルトの梅毒は完治していたと証明されるまで)考えられていたことでも分かるように、天才と凡人は全く別世界の人間のように考えられてしまいがちである。

しかし本当にそうであろうか?今回は偉人の中にみられる天与の才能について考えてみたい。

まずは、福澤諭吉先生と中川牧三先生の学問研究に対する姿勢について。

でははじめに、偉人福澤諭吉は天才か?否か?

現代から見て諭吉が偉人中の偉人であるということには疑いようは無い。

しかし『福翁自伝』を読んでみて感じることは途轍もない秀才ではあっても、果たして天才という部分は・・・という疑問である。》

「わあ!また一万円札の人がでてきたよ~。難しいお話になりそうだ。ヒィ~。」

「アハハハ、やめて、クーちゃん。大昔にいた人だから、今とは全く違うことを学んでいたのよ。心配しなくても大丈夫!今回は“偉人”であり゛天才”ともいえるお二人のお話なのよ。」

「フ~、よかった!じゃあおとなしく聴いているね」

         《~福澤諭吉と中川牧三~(1)-2》

《2、 諭吉は勉強(当時の読書)を14~5歳で、初めてやる気になりそれから田舎の塾に行きはじめ、その後白石塾に4~5年通い漢書を学んだ。

その白石塾で学んだ漢書の量と質の凄さには驚かされる。・・・『論語』『孟子』『詩経』『書経』『蒙求』『世説』『左伝』『戦国策』『老子』『荘子』『史記』『漢書』『後漢書』『晋書』『五代史』『元明史略』などなど。

もうこの時点で、私には福澤諭吉の精神の足跡を辿ってみようという考えは跡形も無く消え去ってしまっていた。

こういった人並みはずれた能力を天才というのなら、諭吉は正しく天才と言えるであろう。

諭吉は(長崎遊学前)兄に尋ねる。「原書とは何のことです」「原書というのはオランダで出された横文字の本だ。いま日本には翻訳書というものがあって、西洋のことが書いてあるけれども、本当に事を調べるにはその大本になるオランダ語の本を読まなければならない~」と兄は答える。》

           《~福澤諭吉と中川牧三~(1)-3》

「お兄さんから、学問をするには原書を読まねばならない、と教えられた諭吉さんはびっくりしただろうね。」

「もちろんよ。それまでの勉強で原書といったら漢字文ですものね。急にオランダ語の本を読むのに、すぐさま原書でというのは大変すぎるわよね。

ソフィアさんだって、大学3年から五十嵐喜芳先生に師事した時は、まず楽譜は原書(イタリア系ではリコルディ版)、そして教えていただく曲は暗譜をしていないとレッスンを受けられない、と驚いていたわよ。大学入学と同時に学外の先生にシューベルトを教わっていたので、そのレッスンは原書(ドイツ系でペーター版)だったため、原書という点では大丈夫だったみたいだけれど、初回レッスンですでに暗譜というのには面食らっていたようよ。

そのかわり、楽譜からでは教われないたくさんの技術・知識を、先生がイタリアで高名な先生に教わったのと同じ方法で教えて下さった、と感激していたわ。

福澤先生の書かれた、子供でも読めるようなやさしい『学問のすすめ』や『福翁自伝』でも、今では現代語訳が沢山出ているので、それを読んで、すでに読んだと思っている人の何と多いことかしら。

ソフィアさんへの故服部禮次郎(元全国連合三田会会長・・・)氏からのお手紙で、福澤先生の本を読むときは、現代語訳でなく原書(先生が書かれたままの日本語)で読むべきです。云々とご注意をして頂いていた、と会報に書いてあったわよ。」

「僕、ネコ語とソフィアさんの喋る日本語しか分からない・・・」

 

《3、諭吉は兄の供をしての長崎遊学(1年間)で初めてオランダ語の原書を読む。

「私は、オランダ医学の先生の家に通ったりオランダ語通訳の家に通ったりしてひたすら原書を読んでいた。原書というものは初めて見たのであるが、五十日百日と勉強を続けると、次第に意味がわかるようになる。~」

これが横文字というものを見たことも無かった中津という田舎から出てきた諭吉の、初めての外国語の勉強への取り組み方であった。諭吉は長崎で初めて横文字のabcを習ったのであるが、26文字を習って覚えてしまうまでには3日もかかったそうである。

「けれどもだんだん読んでいくうちにはそれほどでもなくなり、次第次第にやさしくなってきた」

と『福翁自伝』で述べている。

兄の病死により福沢家の当主となり中津に帰っている間のできごとで、私にとっておもしろい逸話が書いてあるのを発見した。》

「ねえ、チルちゃん、おもしろい逸話ってなんだろう?早くきかせてよ!早く、早く!」

     《~福澤諭吉と中川牧三~(1)-4》

《4、 奥平壱岐の屋敷で見せられたオランダの築城書の新刊(貧乏学生の諭吉には買うことも出来ず、だからといって借りられる見込みも無い高価な原書)を、「なるほどこれは結構な原書でございます。とてもいっぺんには読めません。せめて図と目次だけでも一通り拝見したいものですが、4、5日拝借させて頂けないでしょうか」と言って借り、家に持ち帰るやいなや即刻その原書を初めから写しはじめたのである。

200ページあまりのものであったらしい。「家の奥のほうに引っ込んだきり客にも会わずに、昼夜精一杯、気力のあるかぎり写した~」、ばれては大事になる。泥棒の心配もこんなものであろうかと思いながら写し終わるのである。この書を写すのには20日~30日くらいかかったらしい。「まんまとその宝物を盗み取って私のものにしたのは、悪漢が宝蔵に忍び入ったようだ」と『福翁自伝』で述懐している。》

「凄いね、一万円札の人、泥棒をしたんだ!」

「コラッ!クーちゃん。その頃は゛著作権”なんて言葉はなかったから、泥棒ではないのよ。」

「ソフィアさんだって、国会図書館から借りた、図書館からの持ち出しもコピーも禁止されていた書物を・・・・」

「えっ?どうしたの?」

「ソフィアさんの場合は、図書館の中で、手書きで写していたのを、司書の人に゛家の近所の図書館でも取り寄せてくれるので、そこならここのように厳重な持ち出し検査をしないから・・・”と教えて貰い・・・」

「それで?それで?」

「家の近くの小さな図書館の司書さんが、書き写すのは大変、毎日通っても何ヶ月もかかりますよ。ここでは出入りに荷物検査をしないから、持ち出して外の文具店でコピーをしても・・・”となり」

「うん、うん、よかったね」

         《~福澤諭吉と中川牧三~(1)-5》

《5、この逸話をおもしろいといったのは、私の音楽の恩師(故)中川牧三先生(元日本イタリア協会会長)が、お若い頃、作曲家の近衛秀麿氏とご一緒にヨーロッパを訪問されたときのこと。

超有名人であった指揮者フルトヴェングラー氏に面会した時、彼のスコア(オーケストラの総譜)を見せて頂き、且つスコアを一晩だけ貸して頂けたので、近衛先生と中川先生のお二人でスコアに書かれているフルトヴェングラー氏の自筆記入音符や注意書きを、もちろん徹夜で出来る限り写しまくったと伺っていたからである。

楽譜に記入された事項は演奏家(指揮者)の企業秘密に相当する物である。どんな演奏家でも自分の使っている楽譜は、友人はおろか弟子にすら見せないのが普通である。

又この有名な指揮者には面会(アポ無し)だけでも不可能というのが普通らしい。が、ましてアジアの小国日本からヨーロッパに着くなりのこの考えられない厚遇は一体何故なのか?》

「ねえ、ねえ、チルちゃん、中川先生ってどういう人なの?近衛秀麿さんって・・・もしや・・・」

「そうよ、近衛文麿首相の弟さんよ。近衛家の京都のお屋敷は中川邸のお隣だったので、家どうし親戚づきあいをされていたの。それで中川先生にヨーロッパ留学を勧められて、秀麿氏ご自身が後見人としてご同道されたそうよ。」

「そんな偉い人から聴いた話をここで話してもいいの?」

(写真上:近衛秀麿氏) (写真下:中川牧三氏)

   《~福澤諭吉と中川牧三~(1)-6》

《6、私の、先生への何故?何故?との炸裂は当然である。一般人にはありえない事が起こっているのであるから是非に知りたいところである。

「近衛さんは多少作曲家として名を知られていた。それ以上に日本の“プリンス”としてどんな貴族とも有名人とも面会が可能だったのだよ。フルトヴェングラーもアジアのプリンスに気を許したのだろう。そうとしか考えられない」先生のお答えであった。

中川先生は近衛秀麿氏を後見人としてヨーロッパに音楽留学(最初はヴァイオリン留学←京都で同志社のオーケストラを創設しヴァイオリン演奏と組織運営を兼ねていた)されるために近衛氏とご同道されていたのである。

貧乏学生の福澤先生と日本のプリンス(新憲法下では廃止の制度)としての近衛氏と中川先生。

その社会的地位は天地の差にも等しいが、学問研究への情熱的な行動は全く同じといえるであろう。》

「3人とも知識には貪欲だったんだね。僕ならそんなしんどいこといくらたくさんおやつをあげると言われても、お断りだ!」

 《~福澤諭吉と中川牧三~(1)-7》

《7、偉人としての福澤先生と近衛家のプリンスで著名な作曲家の秀麿氏とやはりプリンスとしての中川先生を同列に論じるのは、中川先生をご存じない方には苦々しく思われるかもしれないが、先生は声楽家でありながら近代日本の音楽(洋楽)の歴史を作ってこられた、近代音楽史そのもののような方である。

先生は単なる名誉に執着されることはなく、日本を代表する音楽家として海外でも常に高く評価されていた方なのである。亡くなる3年前にはイタリア政府より外国人としては初めての最高位の勲章『連帯の星』(グランデ・ウフィチャーレ勲章)を授与されている。(イタリア政府から先生への3つ目の勲章)

一般人(凡人)にとって非常に困難なことを容易にできる能力を、天性として持っている人を天才というのなら先生方は正しく天才と言えるであろう。

知識として言葉で教えることが出来ないことそれを教えるために黙ってご自分の行動を見せてくださった中川先生。次回は先生の先導で日本の音楽史がどのような変化・発展を遂げたかに触れてみようと思う。》 

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