杉本 知瑛子:52号「シューベルト『冬の旅』(2)」

「Schubert『冬の旅』~その深遠なる歌曲の世界~」(2)

                      杉本知瑛子(H.9、文(美・音楽)卒)

シューベルト(Franz Schubert:1797~1828)

彼は、その短い生涯で1.000曲以上も作曲している。歌曲だけでも約600曲にものぼるのである。

しかも、その作品は多いだけでなく珠玉の名曲が多く残され、特に歌曲の分野では他の追随を許さない名曲の数々により、世界は今でも彼に「歌曲の王」という名誉を与えている。

シューベルトの最初の交響曲作曲は1813年10月28日(この年の5月22日にワーグナー誕生、10月10日にヴェルディが誕生)であり、翌年1814年10月19日私の愛してやまない情熱的な歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」(ゲーテの『ファウスト』より)“Gretchen am Spinnrade”(D.118)が、誕生した。

その時シューベルトは17才であり、その頃彼は隣家に住む一つ年下のテレーゼ・グロープを熱愛していたのである。

テレーゼ・グローブ(Therese Grob)

最初から余談に成るが、1814年10月16日、地元リヒテンタールの教会で、シューベルトの四声、オルガンとオーケストラつきの最初のミサ曲ヘ長調が演奏された。シューベルト自身が指揮をし、テレーゼがソプラノのパートを歌った。二人は幸福であったと推測できる。そしてこの作品は熱狂的に受け入れられ、ついでウィーンのアウグスティン教会でも二度目の演奏がなされた。

喜んだシューベルトの父親は息子にピアノをプレゼントしたが、テレーゼの父親はそれほど寛大ではなく、彼女にきっぱりとこの天才少年と手を切らせたのである。

(1815年暮、シューベルトはライバッハの教職を希望するが失敗に終わる)

 

シューベルトの作品の出版者、ヒュッテンブレンナーは、シューベルトが彼女と絶縁した後の1821年にこの哀れな求愛者と恋人の物語について、彼が次のように打ち明けてくれたと述べている。

“彼女は3年間、私と結婚することを願っていた。しかし、私には二人が食べていける職場を見つけることが出来なかった。そうこうするうちに彼女は両親の言うとおり他の人と結婚してしまい、私はひどい痛手をうけた。私は依然として彼女を愛している。それ以来、彼女より気立てがよく、気に入った女性はいなかった。だが多分彼女は私に与えられるものではなかったのだろう。”

1820年、彼女は両親のすすめで金持ちが取り得だけのパン屋の主人と結婚したのである。

 

・・・「初恋とは、本心から愛するときだけのただ一度きりの恋であり、次の恋は前ほど自発的なものではないのである。(フランスの小説家、ラ・ブリュエの言葉)・・・

 

シューベルトは二度目の恋人の名前に関して、口にしていないので詳しいことは分からない。

しかし、彼が二度ハンガリーのエステルハージ伯のゼレス邸に滞在したことは分かっている。

1824年の二回目の滞在中、彼は妹の方の伯爵令嬢カロリーネに恋をした。18才のカロリーネとは心の友情を誓い合ったのであろうか、確かなことは、カロリーネが二十年後になってようやく結婚し、しかも46才で彼女が亡くなった時、この結婚の無効宣言がおこなわれたことである。

1824年当時、シューベルトはすでにじぶんが病魔に冒されていることを知っていたため、身分違いという以上にカロリーネに求婚はできなかったのであろう。

今、二度目にエステルハージ伯のゼレス邸に滞在したことを述べたが、では一度目の1818年には何も起こらなかったのか。

一度目の滞在の時、彼は伯爵夫人の侍女のペーピ・ペッケルホーファーと深い中になったのである。

シューベルトの友人達への書簡で、彼女は大変な美人でよくシューベルトの相手をしていたことが分かっている。もちろんペーピのように好意的で美しい他の女性達も知っていたようであるが、あまり健康的な女達ではなかったようである。1823年、彼は重い病気(梅毒)になっていたのである。

 

この梅毒という病気のため近年までシューベルトの晩年に作曲された『冬の旅』“Winterreise”(D.911)が、かくも壮絶な作品となったのは、長年の彼の病気である梅毒が脳へ入ったためで、『冬の旅』を作曲した時期である死の前年はもう精神異常に近い状態で、『冬の旅』は病気の波の比較的良好な時に作曲されたものだ、といわれているような伝説まであった。

 

ギリシア時代の昔から「詩人は神の声を書いている」と言われ、神の声を聞く者は預言者であり、あるいは又、狂人であるという考え方が信仰されていた。

音楽家も又、預言者(天才)であり狂人であると考えられやすいが(昔、詩は音楽の一種であった)、シューベルトもそのように考えられていたといっても過言ではないであろう。

シューベルトの短期間(約15年間の作曲期間)における1.000曲にも及ぶ作品量、そしてベートーヴェンなどに比べて作品の下書きが残存していないということなどからして、彼の天才からくる無造作な作曲態度という誤解(伝説)が生まれ、さらに『冬の旅』などの死と諦念をテーマにした、一連の陰鬱な歌曲などから彼の精神異常が考えられ、その原因として長年彼を苦しめてきた病気、梅毒が考えられたのである。

 

現代において最も信頼できる辞書として扱われている『New Grove dictionary』の中でも、このように述べられていた。

“当時、もちろん全快は問題外であった;病気は決して再び彼を外に向かって無理に引っ張らなかった。しかし、それは彼の中枢神経系を着実に、徐々に弱らせていった。彼の気質もまた変わっていった。”(筆者訳)

これが、最近までのシューベルトの梅毒に対する考え方であり、他のすべての伝記や解説書もこの考え方に基づいて書かれていたのである。

 

しかし、『現代医学のみた大作曲家の生と死』(アントン・ノイマイヤー著、1993、東京書籍)の中では、シューベルトの遺体発掘による事実と当時の治療法の研究から、1824年を過ぎるとシューベルトの梅毒は治ってしまっていた、と著者は推測している。

遺体発掘により、シューベルトの骨格の解剖学的検査や頭蓋骨の写真を検討した結果、身体の骨にも梅毒性の変性がみられなかったのである。

生前、シューベルトがしばしば訴えていた頭痛や、一時はピアノも弾けないほどひどかった腕の痛みが、多くの伝記や医学論文においても、梅毒の末期症状と関連付けられてきたのであるが、彼の頭痛が、梅毒の第三段階に現れる、骨の変性とは関係のないことが分かったのである。

常時起こっていた頭痛も、梅毒が原因ではなく、強度の近視(合っていない眼鏡)が原因でおこる、目の疲れによるものとノイマイヤー氏は考えている。

ノイマイヤー氏は、1825年末~26年にかけての体調不良も、シューベルトの手紙や行動を考えると平凡な病気としか考えられない、と述べている。

又病気がちであった1828年9月頃の病気も、働き過ぎから体調を崩したということの方が自然であると考えている。なぜなら、翌10月にはアイゼンシュタットのハイドンの墓まで、往復3日の徒歩旅行を行っているからである。

このことは梅毒の再発を否定することであり、またノイマイヤー氏は少なくとも1826年以降は、梅毒の再発は無く、友人のショーバー同様(シューベルトと同じ頃梅毒にかかっていたが、完治している)完治したという仮定は正しい、と主張している。

 

1828年10月、最後の一週間の病状は腸チフスの経過と一致するため、死の直接原因は腸チフスであったことは確かである。

これで、梅毒が死の原因ではなかったという事実が判明したのであるが、その病気にかかったのは今までの定説通り1818年頃(エステルハージ家の美人の侍女、ペーピ・ペッケルホーファーとの情事によるものとの説が一般的)であろうか?

このことも、ノイマイヤー氏は時間的な問題(シューベルトの病状の記録による考察)だけ考えても、ナンセンスと否定している。

シューベルトが性病にかかっている兆候が顕著にみられたのは、1823年1月初旬からである。

そのことからも、感染は1822年の内であるとノイマイヤー氏は推測している。

 

では、『冬の旅』が2月から10月にかけて作曲された1827年の体調はどのようであったろうか?

3月19日にシューベルトはヒュッテンブレンナー兄弟と他の友人達と共に、病床のベートーヴェンを訪ねた。一週間後にベートーヴェンは死に、シューベルトはその時葬式の行列の中で松明を運ぶ36人の中の一人であった。ということは、当時健康に大きな異常はなかったと考えて良いであろう。

また、初夏数週間、ウィーン郊外の田舎の宿屋「Zum Kaisesin von Osterreich」に滞在している。

また、秋にはグラーツで近辺のいろいろな場所への旅行もしている。

このように、持病の頭痛などで不健康な状態ではあっても、精神異常を起こすほどのようなものではなかったと考えられる。

10月に一時的に病気になっているが、これは症状などから考えて、当時流行していたウイルス感染症ではないか、とノイマイヤー氏は考えている。

 

以上のことで理解できるように、『冬の旅』作曲時のシューベルトは決して梅毒による精神異常には陥っておらず、ベートーヴェン亡き後、そのベートーヴェンに続く人間として、音楽家としての自分をとらえ(注1)、作曲に熱中し、それまでの全ての知識、経験、感性をその中にくみこんでいったと考えられる。

それ故にこそ、彼の心血を注いだ代表作というべき『冬の旅』が創り出されたと考えられる。

 

ノイマイヤー氏の科学的な考察による新しい説は、このようにシューベルトの健康状態、特に精神の健全性を証明している。これまで『冬の旅』は、梅毒の脳への影響による作品、と考えられる傾向が強く、シューベルトの理性的な面は全くといっていい位重要視されていなかった。

だが、この新説により彼が影響を受けてきた様々な事項の検証に勇気を与えられたのである。

(注1)

ベートーヴェンの年若い友人、ゲルハルト・フォン・ブロイニングによる報告。

「フランツ・シューベルト、ベネディクト・ラントハルティンガー、フランツ・ラッハナー、は連れ立って、ノイヤー・マルクトにある居酒屋、メールグルーベに行った。ワインを注文すると、シューベルトはグラスを差し上げて『我々の不滅のベートーヴェンを偲んで!』と叫んだ。

グラスが空になるともう一度ワインを注ぎ『今度は我々3人の中で最初にベートーヴェンに続く者のために!』と叫んだ。

そして梅毒による異常が認められないシューベルトが生み出した珠玉の名曲に、初めて彼の追求した精神性をその楽譜のなかに見つけられると歓喜したそのすぐ後、その後定説とされるに至る、とんでもない事実が発表されたのである。
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(IFSI=国際フランツ・シューベルト研究所機関紙“Brille”96年1月号より)
ハンス・D・キームレ著。Y・C・M・サネヨシ訳。
“シューベルトの死の真相に迫る”という論考である。
「シューベルトの病歴については、かれの友人たちと、それにかれ自身による暗示的な証言があるだけである。これは、性病と診断することはタブーとされ、従ってただの一言もそれには触れず、もっぱら別のコトバに書き替えて表現することしか許されなかった、という当時の事情によるものである。かれの死後その死因について科学的な解明に携わった医学者はほんのわずかしかいない。~」
「~以上を総括して確認しておくと、シューベルトは、梅毒の結果ではなくて、水銀による治療の結果死亡したのだ、ということである。1823年から1828年にかけてのHgの体内侵入が、すでにそれ以前から過重な負担として蓄積されていた毒素によって弱っていた肉体を直撃したために、毒性の高い重金属をさらに追加されることに耐え切れなかったのである。」
「水銀のプラス面として、(大概の場合)明らかに創造力を極端に刺激する効果がある、~」
(“Brille ”96年1月号より)

この水銀中毒に関しても無視はできないので、次回に少し述べてみたいと思う。

つづく

(元声楽研究家・元杉本知瑛子ピアノ声楽研究所所長)

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