奥村一彦:53号「私の好きな諭吉の文章28」
「私の好きな諭吉の文章」(28)
奥村一彦(80年経済卒)
前回は、福澤の編み出した「雅俗めちゃくちゃ体」なる漢文のリズムとひらがなの読みやすさを混交して新しい文体をつくった話しと、『文明論の概略』の第十章にある、福澤が一度は否定的に捕らえた封建的紐帯を再利用して「君臣の義」を「本国の義」にどう転換させるかについて触れました。
今回は、福澤の文体と関係がある「演説」への傾倒の深さ、それをおそらく西欧の伝統から学んだと思われるその始まりのところ、すなわちギリシアの演説・議会討論まで遡り、私が今もがいている「口頭による説得術の拡散」問題を取りあげようと思います。もとより、ギリシアについて今更ながら驚いたというのが本当のところで、その広さと深さはまだまだ見渡せる地点には達しておりません。その程度のレベルですので、気軽に読んで下さい。
1 福澤の演説への傾倒
福澤の演説への傾倒は、もう多くの研究書もあり、いまさら私が喋々するところではないのですが、いちおうトピックを時系列的に辿っておきます。なお、演説の定義は厳密にしないで、広く議論、対話、問答など、多くは二人以上の人との話のやりとりと考えて下さい。
【『福翁自伝』「緒方の塾風」から】
「(前略)例えば赤穂義士の問題が出て、義士は果たして義士なるか不義士なるかと議論が始まる。スルト私はどちらでも宜しい。義不義、口の先で自由自在、君が義士と云えば僕は不義士にする、君が不義士と云えば僕は義士にしてみせよう、サア来い、幾度来ても苦しくないと云て、敵に為り味方に為り、散々論じて勝ったり負けたりするのが面白いと云ふ位な(後略)」(『福澤諭吉選集』第十巻、79頁)
これは今で言うディベイトで、緒方塾では、相当高度な議論方法が採り入れられていたことを証明する重要な証言です。正に「君臣の義」と「本国の義」が対立する面白い議論が展開されたことでしょう。この方法によると、歴史上の出来事に絶対の真実などないという価値相対的な思考方法が鍛えられ、また、相手を批判する際にはまず相手の論理の内部を根本まで遡り、内側から崩すなどの説得力が試される批判方法を身につけたのではないでしょうか。攻守所を替えて議論する醍醐味ですね。これは孔子や孟子を絶対的な存在として批判を許さないような知識のありかたを批判し、それが絶対的な身分制が強固な幕末ころの人間関係では到底起こりえない現象で、緒方塾がいかに先進性を有し、日本の封建制との対決に資した想像にあまるほどの功績ではないでしょうか。これが例の『学問のすゝめ』の「楠公権助論」として炎上した話題の下地になったことは間違いないでしょう。
【『福沢全集緒言』「会議弁」から】
明六社の社員森有礼が同社の会合で、日本語はスピーチェ(まま)に向いていないなどと発言し、福澤がこれに反論して「一国の国民が、其国の言葉を以て自由自在に談話しながら、公衆に向て語ることは出来ぬとは、些少の理由なきのみならず、現に我国にも古来今に至るまで、立派にスピーチェの慣行あり」と説得したけれど、当日森は「屈服」しなかった。その後、また社員が十名ほど集まる集会の際に福澤は一計を案じ「今日は諸君に少しお話し申すことがある」と話し始めて、福澤はテーブルの端に立ち、その他の社員を横に二列に並んでもらって、其の当時話題になっていた台湾征討について「ぺらぺら饒舌続けに、三十分か一時間ばかり、退屈させぬように弁じ終わりて椅子に就き、扨、今の僕の説は、諸君に聞き取りが出来たか、如何にと問えば、皆々能く分かったと云うにぞ、ソリャ見たことか、日本語で演説が叶わぬとは無稽の妄信に非ざれば臆病者の遁辞なり」と宣言し、「演説主唱者の勝利に帰して相分れたり」と得意げに語っている。
それから塾に帰って演説の法をもっと広めようと「演説の会堂」を建築する運びとなったと続きます。そこで三田の地に我が国初の演説館がなったという。
この明六社での出来事は「台湾征討」ともあるように明治7年中のことで、また、「明治七年六月七日集会の演説」の原稿も印刷されている。その中に「ぜんたい、この集会は、初めから西洋風の演説を稽古して見たいと云う趣意であった。ところが、何分日本の言葉は、独りで事を述べるに不都合で、演説の体裁ができずに、これまでも当惑したことでござりました。けれども、よく考えてみれば、日本の言葉とても、演説のできぬと申すはないわけ、畢竟、昔から人のなれぬからのことでござりませう。」と先日の明六社での出来事を引き合いに出している書き方をしているところを見ると、明六社での台湾征討の話は、この肥田昭作宅での演説以前ころのことと思われます。この肥田昭作宅での演説の内容は、非常に素晴らしく何度も取りあげましたが、一言だけ再度述べさせてもらいますと「第一がはなし」というフレーズは、福澤の出発点であり、生涯の実践課題であったでしょう。
以上に2つのエピソードが福澤自身によって語られており、上記『福沢全集緒言』の「会議弁」によると、明治6年から翌明治7年あたりには熟練したとの記述があるので、『学問のすゝめ』『文明論の概略』を書き進めながら演説の普及を画策していたことになり、福澤にとって『西洋事情』以来、再び世間に影響力を持ち始めた充実した時期であったと思われます。
福澤が知識や思想を普及するために使ったツールは、出版、学校、郵便及び電信に加え、演説という手段を大きく用いる発想に立ったのは、肥田昭作宅での演説で言うように、「述べる」ことをしないということは、学問の手立てを一つなくしている姿で「五官のうちをひとつ欠たようなもの」となり、せっかくの手段が使われないのはもったいないと、わかりやすい説明をしているのですが、私はさらにもっと深い意味を持っていると思います。
そこで私がはたと思い当たったのが、ギリシャが数百年にわたり哲学者を輩出したその出発点に近いところで活躍したプラトンの対話シリーズだったのです。そのことは次項に回して、最後にもうひとつ福澤が訴えた重要な提言を挙げます。
【『通俗民権論』第3章「煩勞を憚らざる事」より】
「ここに犬の糞を避けて通ると、これを掃除するとの二様の区別あり」とし「今世上の学者または田舎の人民にても政府の処置を見て無理なりと言い圧政なりというものなきに非ず」という現状がありながら、これを「除くの術」を求めず「傍観傍評」するのみで、たまたま圧政に当面した者はこれを知りながら避けて通を常とする、と観察します。福澤はさらに踏み込みます。「公事を、無理と知りながら訴えず、租税を不公平と知りながら承諾する者の本心を叩いて尋ねれば、直を持って自ら居り、曲を以て政府に帰し」て、自分自身が政府の立場に立つような気分で自らを納得させようとしているようであるが、「然りと雖もその無理不公平なるものは何人の見をもってそれを定めたるか、必ず本人の鑑定を以て自ら無理不公平と定めたることならん」、政府もまた同じで「結局理非曲直の未だ判然ならざるものと言わざるを得ず、出訴公論はこの未判の理非曲直を判然たらしむるの方便なり」として、「出訴」及び「公論」が理非曲直を明らかにする方法として重要であると提言します。
福澤は、単なる人間観察に終わるのではなく、その人の本心を探って見ると(叩いて尋ねてみると)、自分の鑑定することのみに依拠して、相手を非だと曲だと言っているに過ぎず、出訴して討論したり、公論として世間に持ち出して議題に上せて、決着を付けるべきであると提言します。つまり、学者と田舎人は「私的」な正義感しか持ち得ず、それが公の議論に付されて初めて「公的」な正義に転換することをしない弊害を憂いているのです。我が国では「口で言うより手の方が早い」という浪花節もあるくらい、福澤の警告した私的正義がまかり通っているが、これが社会の病巣として、日常に暴力が容認され、匿名による誹謗中傷がはびこる原因となっていると考えます。私の経験したところでも、道路上の些細なトラブルから暴力事件に発展し、取り返しの付かない傷害を負う事件が後を絶ちません。欧米では、道路上のトラブルでも、通行人に訴えかけて理非曲直を判断する社会慣行があると見ています。福澤のいう「公論」というのは、理非曲直を社会に問う議論のことで、公的正義のあり方を探るという姿勢をさします。
2 古代ギリシャへの架空の旅行
そこで早速家蔵の図書から『ソクラテスの弁明』(岩波文庫と光文社がありますが、後者の納富先生ので読むことにしました。慶應で教鞭を執られていたことと現在のプラトン学の第一人者だからです。)を取り出して読み直しました。この本は、対話ではなく、ソクラテスの裁判所における無罪の弁論ですが、告訴人との関係では討論の一方の主張であります。死刑がかかっている恐ろしい場での本人の弁論をプラトンが後になって作品として提出したものです。ですので、実際の弁論とは少し違うかも知れませんが、その裁判に立ち会ったプラトンの記録と記憶で構成されていますから、趣旨は外していないと信用します。
まず驚かなければならないのは、告訴人と被告訴人という二者対立の構造がとられていることです。この二者が対等な立場で意見を述べることができるのは、ひとえに判断者が別に存在するからです。我が国の戦前までの刑事裁判は、糾問者(検察官)と被糾問者(被告人)という関係で、対等な討論者というものは凡そ存在しない構造でした。また、刑事事件においては当時の検察官は裁判官より事実においては地位が上で、裁判官は検察官が提出したものを鵜呑みにしていた時代です。弁護人は、判決文の中では出席したことも書かれない、下に見られていたのです。従って、我が国で裁判官が公正な判断者という地位を獲得するには、戦後の米国による裁判構造の変革を待たなければならなかったのです。
ところが、ギリシャでは、裁判官が判断するのではなく陪審員が、双方の意見を聞いて、白黒の石を投じて有罪無罪を決していたのです。黒が多ければ有罪、白が多ければ無罪という実に明快な結論を導いていたのです。しかも、アリストテレスの「アテナイ人の国制」によれば、陪審員は501名という多さで、多くの市民が裁判に関与できたのです。もちろん男性だけですが。
(続く)


