天川 貴之:52号「哲学随想11」~人生の渦中の中で掲げられる真理の証明について」
【哲学随想11】
「人生の渦中の中で掲げられる真理の燈明について」
天川 貴之(1991、法、卒)
人間は、誰しも、この地上の様々な人間関係に苦悶しているものである。しかし、その中から解脱して、超越的自由を求めんとしているものであるのである。どのような境遇にいようとも、真理を思索することは出来る。真理を創造することは出来るのである。
人間は、時として孤独に苛まれる時もあるであろう。しかし、その孤独の中に、叡智の結晶を真珠のように育んでゆくことも可能であるのである。
人間の精神は、常に永遠不滅なものを探究していることが多い。有限の環境に苛まれながらも、その中に不滅の輝きを刻印しつづけようとするのである。我々人間は、真理を紡ぐことによって、自由を獲得してゆくのである。真理の光明によって、解脱を獲得してゆくのである。
真理を土台にして、人生を達観し、超越的に観ずることが可能なのである。まるで、山頂から下界を眺めるように、真理の視点から、全ての人生の諸般を眺め渡すことが出来るのである。
人間は、真理において不動心を示すことが出来るのである。その不動心故に、真理を紡ぐことが出来、また、その真理故に、不動心を保つことが出来るのである。
様々な哲学的書物は、人生を生きる上で、そのような不動心を創ることに役立つことであろう。人生を達観する高みへと導いて下さることに役立つであろう。そして、それらを土台として自ら思索することによって、様々な地上的な迷いの海を泳ぎ、生きながら彼岸へと渡る努力をしてゆくのである。
イデアとは、迷いの大海の中で示された彼岸の心象である。イデアを思索し、イデアと一体となって瞑合してゆくことが、本来の哲学的営みである。イデアを顕わし、イデアを示現してゆくことが、哲学、宗教、道徳、芸術の役割であるのである。
イデアとは、人生の途上で獲得された彼岸の真理である。解脱の真理である。そのようにして獲得された真理を中軸にして人生を再構築してゆけば、人生とは、実に使命に満ち満ちたものであろうことが分かる。人生の迷いの渦中にあるあらゆる執着の渦を断ち切り、そこに、明鏡止水の如き、明月の如き境地を差し示すものこそが、真理であり、イデアであるのである。
いかなる人生も無駄ではないのであり、その過程その過程に独特の意義を有しているのである。様々な境遇の中で思索されたことは、必ず償われることになるのである。どのような境遇の中でも思索した真理は、必ずや、その境遇を逆照射するようになるものなのである。真理の光明が明るく照らし、迷いの執着を滅尽し、涅槃寂静の境地をもたらすものなのである。
真理とは、本来、涅槃寂静の境地に誘う燈明の灯である。例えば、仏教聖典を読んでいても、様々な心のわだかまりや苦悶がとれて楽になり、寂静な境地をもたらすのは、そこに人生の真理がつづられているからであり、その真理をもって釈尊が解脱され、涅槃に入られた真理が叙述されているからである。
人生に対するあらゆる執われの心が無くなった時に、心は解脱してゆくのである。ありのままの真実を、ありのままの道程として観ずることが出来たならば、迷いや執われは覚めてゆくのである。
どのようなものからも、真理を汲み出すことは出来るものである。我々人間は、通常、真理を漠然と思索しながら生きているものであるが、それが翻然と明瞭に自覚される時があるものである。そして、それを叙述する過程において、再認識されるものである。潜在意識において知っていたものが、顕在意識においても自覚されるようになってゆくのである。
それ故に、哲学的認識と叙述は、人生と世界を切り拓いてゆく、内からと外からの真理の光明であるといえるのである。真理は、叙述されることによって、現前として現れてゆくものなのである。今まで無かったものが創造されてゆくものなのである。そのようにして創造されたものが積み重ねられてゆくと、それが一つの体系として仕事をし始めてゆくのである。
こうして思索された物事の本質は、全てが正しいということもなければ、全てが誤っているということでもなく、そのそれぞれが相応の理のあることなのである。少くとも、そこに一片の理はあり、或る時には、本質的な人生と世界の摂理を叙述していることもあるのである。
故に、様々な思索が増えることは、大いに世の中に貢献することである。そのような考え方が出来るという一つの道を、無数の道の中において差し示すこと自体が、大いなる愛の営みなのである。
様々に思索された本質的真理は、たとえその考え方が時の経過とともに変ろうとも、その本質的真理を必要としている方にとっては永遠の今であるし、その過程を経て初めて次の過程があるという意味では、必要不可欠な道程を創っているといえるのである。
このように、思索すること自体に意義があり、価値があり、その中から叙述された本質的真理の煌めきは、まさしく人生の果実そのものであり、また、その種子が、新しい木を創り、果実を生んでゆくものなのである。
確かに、永遠不滅の真理を叙述出来ればそれは最高のことであるが、たとえそれが歴史の波間に消えてゆくが如き思索であっても、そのように考えた方が居たこと自体に意義があり、そのような思想が生まれたこと自体に意義があるものなのである。
我々が、永遠不滅の古典を師としながら、自らの人生の中で思索し、創造し、叙述したものは、それ自身の価値を持っているものなのである。そしてまた、それは、様々な価値を生みつづけてゆくものなのである。
真理によって人生を超越し、解脱しえたならば、その過程における真理は、多くの方を照らす燈台の一つとなってゆくことであろう。
(JDR総合研究所・代表 天川貴之)


