野村3)福澤諭吉全集の牛歩研究(3)・・・27号

「福澤諭吉全集の牛歩研究と、今の仕事と、塾の理系話題 その3」

                       野村 政直 (平成15、経)

工業会委員の出張業務にて大分市を訪れる機会が6月上旬に得られたので、時間を調整して、中津迄レンタカーを走らせて、福澤先生の旧宅を訪問して来ました。中津城に程近い下級武士階級の人々が肩を寄せ合って暮らした留守居町通りは奥まった露地の更に奥に有る感じで、車のGPS機能が無かったら短時間ではとても辿り着けない場所でした。以前往訪した事がある佐賀の大隈重信邸の史跡と比べて、当時の生活環境の違いが大いに偲ばれました。佐賀城から歩いても直ぐに辿り着く、知行300石の上士の長男だった大隈重信邸の史跡と比べて、福澤邸の史跡は奥まった露地で、屡々川の氾濫で家屋が水浸しになるほどの低い湿地帯に有りました。何事も百聞は一見に如かずだと思いました。大阪の中津藩邸にて突然に脳卒中で父の福澤百助氏が亡くなり、18ヶ月の乳飲み子だった諭吉ら5人の子供を抱えた母お順は中津の実家に帰りました。13石2人扶持の福澤家の住まいは縦に長い造りで、今の史跡駐車場の脇に有ったそうですが、それはもうなくて、狭い露地の斜め前に有った母の実家に家族5人が直に移り住んだそうです。その母の実家跡が福澤記念館になっていました。収入が少なくて子供が多いので生活は困窮を極めたそうですが、母のお順は明るく子供たちをしっかりと養育し、兄1人、姉3人で末っ子の諭吉少年も様々な家のお手伝いをして家計を助けたそうです。長じて経済感覚に長け、大きな収入を著作などから得た福澤先生の人となりは、間違いなく幼少期を過ごした中津で育まれたものと思います。子供心に門閥制度は親の仇でござると公言し、努力して日本一のお金持ちに成りたいと思ったと史跡資料にありました。三つ子の魂百まと言いますが、母の実家の土蔵の2階で14歳からは、少ない自由時間を最大限に利用して猛勉強をしたそうです。13才頃までは家の手伝いと遊びばかりで、家族が皆、諭吉少年の将来を大変に心配したそうですが、今で言う中学校レベルに進んでから、自ら塾にも通い、猛勉強を始め、多くの面で1番を収めたそうです。官職よりも実学を重んじ、単に金儲けでは無く、智徳の源泉と独立自尊を求めて勉強に励み、先進国の文明を開国間もない日本に数多くもたらした業績は、中津での苦しくとも前向きな生活から培われたと言える場所を今回短時間でも訪問出来た事は、塾員として大変貴重な経験に成りました。未訪問の塾員はぜひ一度。

さて今回は第1巻の終わり部分と第2巻の始め辺りからのメモをベースに弊 牛歩研究を紹介させて頂きます。今回のメモは、実際の旅から体感されたイギリス、フランス、中国に関する記述からです。第1巻の424ページに「今英国に於いて盡善盡美の制度と称するものも、そのもとを尋ねれば往古の風俗より来たりもの多し。故に此風俗の沿革を探索するは最も大切なることにて、且つ之に由て考えれば、世の文明を進めんとするには学者の高論に従いて法を造るより、むしろ、ばうまい夷俗の風を改正するの便利なるに若かずとの理を了解す可し」と書かれています。国法の制定にあたり、学者の高論に従うのではなくて、その国における昔からの習慣に法的な改正をするのが便利との立場でした。明治維新後に急ぎ国内の諸制度を制定し、欧米諸国との対等な外交関係を構築するにあたり、英国の実態を分析し、それを書物に表されました。その情報は、火急に求めれていた日本での法制定に置いて、自国に合うものにしつつ、欧米列強と比べて、遜色のない、対等に渡り合える制度を作るのに大いに役立ったであろうと思います。

次にイギリスにおける自由の記述が面白いと思いました。第一巻496ー498ページ辺り。「我英国人民の通義とは何ぞや。即ち其一身の自由なり。此自由の趣旨を主張せしは決して一朝一夕の偶然に出たるにあらず。まさに政府の体裁をなせし時より其源を開き、政府の体裁と国民の自由と恰も共立並行せり。(中略)英国人民の通義特典を布告せし法令の多きこと、其数、前条に掲示するが如し。其通義とは国民一身の自主自由なれども、天下の公利を謀て私利を去り、天賦自由の棄つ可きを棄て、以て一身に残れる所の自由あり。(中略)今此通義を分て三類と為す。曰く、身を安穏に保護するの通義、曰く、身を自由にするの通義、曰く、私有を保つの通義、是なり。大凡人生天賦の自由を害するとは、他なし、只此三の通義を妨げることなり。故に此通義を保護するは、即ち我英人処世の自由を保護するの趣意なり」と書かれています。自由の考え方に関して、イギリスでの情報を紹介され、日本の知識人等に大きな影響を及ぼしたと思われます。

これに対してフランスの紹介は別の意味で興味深く読みました。第1巻のページ580で、「フランスの貴族は従来下民を軽蔑するの風に慣れ、貧賤の者を見ること犬馬の如く…。」このような貧しいものに対する差別や蔑視の姿勢は今のフランスでも多かれ少なかれ生き続けているのではないでしょうか。その蔑視への反発が凶暴なテロ活動に走らせているとは言い過ぎでしょうか。

またページ580では「名は自由なれど其実は然らず。(中略)自由を求めて却て残虐を被ると云う可し」フランスは実際の所、この時代から自由、博愛、平等のない国だったので、逆にそれらを唱える運動が顕在化した?フランスの政治は暴力を暴力で置き換えて来た面を否めないのではないでしょうか。だとすると今のEUの諸制度の中にも理不尽な面が多くあり、実際に自分が担当しているヨーロッパ諸国への化学物質の登録においても、それは公平に見てグローバルスタンダードとは言えない、特にフランス独自な政策に基ずくローカルルールが強く蔓延っている地域の様に感じます。Brexitは、歴史的に見て必然の動きではないでしょうか。それでもフランスでビジネスを成功させるには、その歴史や政治や思想を理解する必要が有り、このような面の理解も大切でしょう。EU側での仲間を増やすには、科学と理論で相談できるドイツとの様々な連携が、日本のEUでのビジネスの展開には賢明な選択と、化学会社のビジネス的には思います。

第2巻135-136ぺージでは、阿片戦争の経緯、イギリスの侵略による香港略奪と、高額な賠償金を紹介しています。福澤先生は南回りの船による周遊旅行でヨーロッパの進んだ文明を学ぶだけでなく、その往復の寄港地などで、当時の中国や東南アジア諸国やインドや中東諸国の実態も鋭く観察し、「西洋旅案内」の文章中にも数多く書き留めています。シンガポールの中国人街を訪れた際には、中国語と英語とフランス語で会話を試みるも、英語だけが上手く通じて会話が出来たので、今後は英語をもっと学ぶべしと書かれています。やはり実体験に勝るものはなく、慶應では英語教育に力を入れて国際人を排出して来た元は、福澤先生の3回に渡る欧米視察からの経験が塾教育の強い面として、脈々と受け継がれて来ているのではないでしょうか。

自分の仕事は社長室勤務に変わり、少し担当が進展しました。単に薬剤登録だけではなく、化学物質全般の管理、労働安全、行政・環境問題対応へと広がりました。仕事に要る本を読む中で日本の環境に関する法律が270程あることに驚くと共に、昭和30年代の公害問題から規制を強化し、世界でも最も厳しい環境規制と成って来ています。生産現場の労働条件に配慮しつつ、コスト競争的に一番安価に生産するには、何処で化合物を合成し、製品化し、販売に繋げるのが、より利益が出るのか、日々職場の仲間と頭を悩ませます。企業継続が出来る利益を出して、株式の配当を行うという株式会社の責務を全うする事はとても大変ですが、もの作り日本に求められている期待も大きく、現役の企業人は日々情報の最新化と、新しい発想が必要です。化学会社は潜在能力が高くて面白い仕事が多いものだなとも感じます。地震からの一日も早い復旧シナリオも企業として、銀行筋に出さなければなりません。社会に役立つもので、環境保全や安全性に役立つ商品を開発し、登録し、販売し、利益を還元出来るように工夫している毎日です。今回は塾の理系話題は割愛させて頂きます。

(野村政直:医学博士・石原産業社長室・慶友三田会会長)

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